わたしのこころだ。きよくなれ。

2024年3月24日
聖書箇所:ルカの福音書19章1~10節
説教題:罪人の友イエス

おはようございます。2024年3月24日を迎え、1週間主イエスの再臨が近づいたことを感謝します。今日から受難週、特に主イエスの十字架の苦しみを覚えたいと思います。またライブ配信を通して礼拝に参加している兄弟姉妹の皆様、病気療養中のあなたもおはようございます。お元気でしたか? 今朝も共に礼拝をささげる恵みにあずかり感謝します。

さてイエスの生き方、特に行動派イエスの生き方から学ぶ5回目になります。今日はルカの福音書19章1節~10節を通して「罪人の友イエス」というテーマで考えてまいりましょう。

1:ここはザアカイがイエスと出会い救いを受けた有名な箇所です。教会学校の紙芝居にも出てきます。今イエスは公生涯の最後、十字架に向かってエルサレムへ進んでエリコの町にはいったところです。南西に30キロ近く進めばエルサレムに着くという状況です。
エリコは棕櫚の町として知られ、オアシスがあり古くから人々が住み始めた町です。近くにはヘロデ大王が造った冬の宮殿でにぎわい、交通の要衝で5つの道路を結ぶ重要な町でした。この町にイエスはザアカイを救いに導く目的をもって訪れたのです。

2:この町で取税人のかしらの仕事をしていたのがザアカイです。ザアカイの意味は「きよい」「純真」という素晴らしい意味があります。でも彼は名前とは正反対にあくどい商売をしていたのです。2千年前のユダヤはローマ帝国の支配下に置かれ、税金を納める立場にありました。

その際、税金徴収人をローマ人が担当したのではなく、ユダヤ人が代わりに税金を集めるシステムでした。ローマは決まった金額を受け取れば、後は彼らがいくら取ろうが干渉しませんでした。そんな事でザアカイは多額の手数料を上乗せし税金徴収をしていました(例えば、通行税など)。そんな中で彼には沢山の従業員がいたので、その従業員から上乗せした税金がたくさん集まり彼が大金持ちになるシステムが出来上がっていたのです。彼は大金持ちでしたが不正な報酬を得ていたので国民からは裏切り者、売国奴、罪人と呼ばれ憎まれていたのです。
彼の満たされない心、寂しさ、空しさから、お金では得られない人生の意味、大切なものを模索していたと思われます。そんな時に必然的にイエスはエリコの町に入られたのです。

3:一方でザアカイはイエスが愛に満ちたお方、語る言葉に力があり、その癒しのわざも知っていました。彼はイエスこそ来るべきメシヤ(救い主)だと考え、どんな方か見ようとした(これが大切)が、この言葉は一生懸命見ようとした、見出そうと探し求めたという意味です。軽い気持ち、興味本位でイエスを見てやろうかという意味ではありません。懸命に、熱心にイエスを見ようとし続けた(求道していた)。けれども背が低いし、大勢の群衆がいたのでイエスを見ることが出来ません。人々がわざと見せないようにしたかもしれません(いじわるして)。

4:でも彼はあきらめない。彼の本気度を伺い知ることが出来ます。彼はイエスの通られる道を先回りして大きないちじく桑の木に登った。これは即座に考えたのでしょう。何としてもイエスに会いたいという気持ちが現れている行動ですね。
5:このイエスの行動、発言は驚きですね。イエス様は既にここにザアカイがいる事、金持ちだが心が満たされていないこと。そして真の救いを求めていたことなど全部ご存じでイエスは上を見上げ「ザアカイ、急いで降りてきなさい(純真な者、清い者、急いで降りてきなさい。)わたしは今日あなたの家に泊まることにしてある」泊まるのは共に同じ時間を過ごす、親しい関係のしるしです。イエスはザアカイが純真な思いをもって求めていることを知り、自ら行動を起こしているのです。
※こうしてみるとザアカイとイエスの出会いは偶然ではなく、必然の中で起こったことです。今の時代でも私達が神を求め、救いを求める時、イエスはいろいろな方法で人を遣わし、出来事を通して救いに導いてくださいます。私も高校生の時に人生の目的、生きる意味を考えていた時、同級生の友達を通して聖書を知り、イエスを求め十字架の御業を信じて救いを受けました。このように神は救いを求める人に対して応えてくださるお方です。神はどのような人物であろうとも、求める人には応えるお方であることを示しているのです。

6:ザアカイは救い主と出会い、イエスの方から声をかけてもらい大喜びです。そして心の中にイエスを迎え、家にも迎え入れて食事会を開いたのです。※このようにイエスに招かれたら心を開いてイエスを心の中に迎え入れる。これが私達の正しい受け止め方です。皆さんの中でまだイエスを信じていない方は、是非この場でイエスの招きを断らず、イエスが私の罪の為に死んで葬られ、よみがえられた救い主で有ると心を開いて一歩前に踏み出し信じてください。

7:一方周りの人々の反応は全く正反対です。「あの人は罪人のところに行って客となられた」当時のユダヤ人たちが取税人に対して抱いていた自然な感情です。そうです。取税人を罪人と呼んで忌み嫌っていたのです。取税人は強盗や人殺しと同列に考えられていたのです。如何にザアカイたちが嫌われていたかがわかります。

8:でもこの段階でザアカイは救いを受けています。6節~8節迄は食事の時間がありますので、数時間経過していたと思われます。当時は左ひじをついて横になりながら食事していた。でも彼は立ち上がり(一大決心)イエスに告白しています。尊い先生という呼び方はしていません。主よ。既にこの時イエスを救い主と信じている根拠となる言葉が「主よ」という信仰告白です。大勢の罪人仲間の前で大胆に信仰告白と悔い改めをしているところがこの場面です。伝説によると救いを受けた後、彼はカイザリヤの司教になったと言われています。

さて悔い改めは人生の方向転換の事ですが、お金の亡者だった彼から信じられない言葉が飛び出してきました。彼の自発的な告白①財産の半分を貧しい人に施します。通常の施しは3年毎に10分の1捧げもの(申命記14:28~29/342頁)②だまし取ったものがあれば4倍にして返します。彼は罪の意識が芽生え律法に従い(主エジプト22:1138頁)4倍にして返します。この申し出を見るとザアカイが悔い改めているとわかります。しかもこれを自ら申し出ているのです。このように人は救いを受けると生き方が変わります(クリスチャンの証)

9:今日この家に救いが来ました。この人もアブラハムの子なのですから(信仰による救いを受けた)という意味。10:この個所のポイント、人の子(イエスご自身)は失われた人(ザアカイ)を探して救う為に来た。イエスとザアカイの出会いは偶然ではなく必然です。イエスは求めるザアカイを罪から救う為に探し、行動し、そして出会ったのです。
結び
イエスは自ら進んでザアカイを探し友となりました。イエスはあなたの事も探しています。