わたしのこころだ。きよくなれ。

2024年2月25日
聖書箇所:マタイの福音書19章9~13節
説教題:罪人を招くイエス
 

おはようございます。2024年2月25日を迎えました。一週間主イエスの再臨が近づいたことを感謝します。今朝もライブ配信を通して礼拝に参加している兄弟姉妹の皆様、おはようございます。また病気療養中のあなたもおはようございます。お元気でしたか? 会堂にいる皆さん共に礼拝をささげください。私は本日午後から能登半島に行きますのでお祈りください。

さて、福音書からイエスの生き方から学んでおりますが、今日はその3回目でマタイ9:9~13です。まず文脈(コンテキスト)を確認しましょう。イエスはご自身が語る言葉の権威だけでなく、ご自身が神であることのしるしの業を次々と行いました。初めにツァラアトに汚れた人へのきよめ、次は中風の人の癒し、熱病の人の癒し(ペテロの姑)、ガリラヤ湖で嵐を鎮める(自然界の支配)、最後はガリラヤ湖の東にあるガダラ地方で悪霊追い出し(霊的な支配)。9章ではイエスが舟でガリラヤ湖を渡り活動拠点のカペナウムに戻ります。ここでもイエスはこの町で中風の人を癒しています。
そんな中、道を歩いていたイエスは収税所に座っているマタイと出会い、彼を弟子にするのです。このマタイこそがマタイの福音書を書いた人物です。それでは詳細を見てまいりましょう。

9:マタイは収税所に座っていた。取税人と言う事です。彼の名前はイエス様から命名され「神の贈り物」という意味です。彼の正式名はレビです。アルパヨの子レビ(マルコ2:14・ルカ5:27関連個所)。この名前から彼の出身部族が祭司や神殿で神に仕えるレビ族であることがわかります。でもそんな誉れ高いレビ族出身の人物が悪名高い取税人になってしまいました。彼は通行税を集めています。当時ローマ帝国に支配されていたユダヤ、ガリラヤ地方では所得税や住民税、通行税をローマに納める必要がありました。

でもローマの割り当て請求金額を納めれば、あとはどれだけ上乗せしようと任されていたので、取税人は自由に徴収できました。それ故、高い税金を支払う事になる国民は取税人を売国奴、裏切り者として軽蔑、憎みます。レビ族でありながら、あくどい商売をして金持ちになっていたマタイは心に空しさ、満たされない心、これでよいのかという思いがあったのだと思います。そして、いつかイエスから直接話を聞いて自分の人生を変えたいと思っていたのかもしれません。

そこにイエスが収税所の前を通り、イエスの方から声をかけるのです。彼は求める人の心がわかっていたのです。「わたしについて来なさい」ザアカイの場合もそうでした。イエス自ら「ザアカイおりてきなさい」と声をかけています。こうしてイエスは罪人の友となられたのです。
ここで「私について来なさい」というのは、ただ単にちょっと来てという意味ではなく、弟子になれと言う事です。
弟子とは
①すぐ何もかも捨てて主人に従う存在(捨てるのは家を売り払い、家族を顧みないで従う事ではない。人間関係における義務を捨てるのではなく、権利を捨てる事です)。
②主イエスと固く結びついて生死を共にする。彼は即座に立ち上がってイエスに従ったのです。
※イエスの弟子になるのは私達にも当てはまります。私達もイエスを救い主と信じて救いを受けイエスと一つにされました。そしてイエスの心を自分の心として生きようと変わってきます。
10:それからイエスはマタイの家に招かれ食卓の席についていた。これは今のようにテーブルに椅子ではなく、ギリシャ風の生活習慣で床にひじをついて寝そべって食べルスタイルです。
イエスを中心に囲んで、弟子達や招かれたのが取税人たちや罪人たちが着座します。
当時の取税人の社会的立場は、ローマの手先になって、税金をたくさん集めその上前を撥ねていたので民衆から軽蔑され、嫌われていた。一方罪人とは取税人以外に問題がある人全般を表す言葉ですが具体的には①パリサイ人のように旧約聖書の律法を厳格に守ろうとしない人々、又は守れない人々。パリサイ人は彼らを地の民(アムハーレツ)と呼んで軽蔑していた。②道徳的に反することをして社会から断絶された人々を当時は罪人と呼びました。

そのパリサイ人が蔑んでいた取税人や罪人がイエスの周りに集まってきた。これは当時の社会通念からするとあり得ないことです。彼らは人の表面的な事が気になりイエスの行動を監視、チェックしていたのです。ちょっとでも旧約律法に反することがあれば攻撃してくるのでした。

でもイエスは人の心の本質を大切にされたので取税人や罪人とも普通に交流します。イエスは人の表面的な事よりも人の内側を見ていたのです。彼らは心の中で悩みを持ち、このままではいけない、やり直ししようと考えていたのです。その心をイエスは理解して受け止めていました。山上の宣教で、イエスは「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものですから」と言われましたが、その通りにイエスは取税人や罪人達を受け入れたのです。

ここまで、取税人と罪人たちを自然な形で受け入れ、友となったイエスの生き方から何を感じ取り、あるいは学びますか?
・イエスは人のうわべを見て判断することをせず、心の内側を見て人と関わります。
逆にパリサイ人たちは外側の目に見えることばかりに気を留めて人を判断していた。それが上から目線で人を裁くことになっていったのです。第一段階はよく観察してイエス本人に言わず弟子たちに言うのです。「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪びとたちと一緒に食事をするのですか」(11節)。食事を共にするのは心を開いてすることなので友好のしるしですね。表面的な事に終始して人を評価する事しか頭にないパリサイ人には考えられないことでした。

彼らの質問に対しイエスは直ぐ「医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人です」と答えます。取税人たちは心が痛んでいる病人なのです。そこにこそ医者である私が必要なのだとイエスは言われたのです。
続けて「わたしが喜びとするのは真実の愛(ヘセド)である。(いけにえ)ではない(ホセア6:6から引用)」とはどういう意味か行って(現場)で学びなさい。」 
これは、神へのいけにえ、動物の捧げものが必要ないと言っているのではなく、人が神への真実の愛をもって生きる事を神は最も喜ばれるからこれを大切にせよと言う事です。
その上で、「わたし(イエス)は正しいと思い込んでいる人を招くためではなく、自分を神の前に罪があるものと認めている心の謙虚な人を招くのです。」このように結んでいます。

以上ですが私達はキリストの弟子としてイエスがしたように罪人の友となれるか?答えはなれません。でも一歩二歩でもイエスの心に近づいてイエスのように生きよう。ここに私達がキリスト者として生きる価値があるのです。聖霊によってこのように変われば本庄教会は成長します。
そしてイエスは私達が自分の罪深さ、弱さを認める人を招いて下さるのです。ぜひ私達も弱さを認めつつ聖霊に励まされて歩み、罪人の友となれるようなキリスト者とさせていただこう。