主イエスの生き方から学ぼう

2024年2月25日

2024年2月18日
聖書箇所:マタイ8章1~4節
説教題:わたしのこころだ。きよくなれ 
 
おはようございます。2024年2月18日を迎えました。一週間主イエスの再臨が近づいたことを感謝します。今朝もライブ配信を通して礼拝に参加している兄弟姉妹の皆様、おはようございます。また病気療養中のあなたもおはようございます。お元気でしたか? 今日も会堂にいる皆さん共に礼拝をささげください。

さて、先週から福音書を通してイエスの生き方から学んでおりますが、今日はその二回目で、マタイ8:1~4です。まず前後関係から説明します。前の5章~7章は、有名なイエスの山上の説教と呼ばれる箇所で、人々はイエスの話を聞いて驚きました。それは律法学者やパリサイ人のような話し方ではなく裁判官が判決を下すような権威に満ちた言葉や態度で話されたからです。例えば、マタイ5:21~22(読む)にあるように本質をついている言葉で人々に語り掛けました。こうしてイエスこそ最終的権威の持ち主であることを示しています。(言葉の権威)

続いて8章~9章は言葉の権威のみならずイエスこそメシヤであることを証明する愛の業が行われている個所です。その初めのわざがツァラアトに汚れた人へのきよめでした。更にイエスはメシヤとしてのしるしの業を行っていきます。中風の人の癒し、熱病の人の癒し(ペテロの姑)、ガリラヤ湖で嵐を鎮める(自然界の支配)悪霊追い出し(霊的な支配)へと続きます。
こうしてイエスこそ真の権威の持ち主であることをわざを通して示しているのです。そのような訳で今日は8章1節からツァラアトに汚された人へのきよめのわざを見ていきましょう。

1:イエスが山上の説教を終え山からおりてきます。大勢の人が共に下りてきました。山から下りてきたその場所は人々の生活の場で有ります(現実の場所)。当然様々な課題を抱えながら人は生きています。これはイエスの時代も今も変わりません。2節になるとすぐにわかります。
例:昔若いとき山でバイブルキャンプをして大変恵まれた日を過ごしますが、キャンプを終えて家に帰ってくるとそこは現実の世界で有り様々な課題があります。それと似ています。

2:その中で特別に驚くべき光景がイエスの周りに起こりました。すると見よ。これは著者のマタイが注目すべき状況を伝えている言葉です。大勢の人々の中にツァラアトに汚された人がイエスに向かってひれ伏しながら来たのです。
この時群衆はツァラアトに汚され人から逃げるように離れていったのです。何故ならツァラアトに汚された人は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって「汚れている、汚れている」と叫ばなければないのです。(レビ記13章45節)。因みにこの汚れているとは道徳的な罪の汚れではなく、宗教的な汚れとされていたのがツァラアトの特徴です。
こうして、ここは、あり得ない事が起こった(その人がいきなり群衆の中に割り込んできたので)マタイはすると見よと言っているのです。

※ここでツァラアトに汚されるとはどういうことか少し考えてみましょう。昔の翻訳者は誤解してらい病(ハンセン病)と間違って訳していました。その為に多くのハンセン病患者の皆さんを傷つけてしまった経緯がありましたが今そのような訳はありません。これはハンセン病とは全く違いますので、皆さん、くれぐれも誤解のないようにお願いします。
ツァラアトに関する詳しい記述はレビ記13章と14章に出てきます。人の皮膚に腫物、かさぶた、斑点ができて、その患部の毛が白く変わり、患部がそのからだの皮膚よりも白く見えたらツァラアトに汚された部分であり、祭司はそれを調べ「彼は汚れている」と宣言する。
またこのツァラアトは衣類や家の壁にも付いたりします。カビのようなものかもしれません。こうして祭司によってツァラアトと診断されたら「汚れている、汚れている(離れてくれ)」と叫んで、一人で生活しなければなりません。その患部が彼にある間、その人は汚れたままで、多くの場合生涯にわたって社会から隔絶されて一人で住むのです。
宿営の外が彼の住まいとなる(レビ13:45~46・旧約199頁)一方癒された時は祭司が宿営の外まで出向いて調べ(レビ14:3旧約200頁)その結果、直っているなら祭司がきよめの儀式をしてきよいと宣言する。
因みに旧約聖書にはモーセやミリアム、ウジヤ王、ナウマン将軍もツァラアトに汚された記述があります。以上、この汚れは日本語に訳するには何を指しているか厳密には不明なので最近の聖書翻訳ではツァラアトというヘブル語をそのまま用いているとのことです。またツァラアトの霊的意味は神と人との関係を断たれる罪の型であります。

・イエスに向かい、ひれ伏しながら、向かってきて「主よ、おこころひとつで私をきよくすることがおできになります」もしあなたがご自身の意志を働かせてくださるなら、私をきよくすることが出来ます。※この彼の言葉と態度からイエスをメシヤと信じる大胆な信仰者であることがわかります。私達もイエスを常に信頼して前進することが重要です。

4:するとすぐにイエスは彼から離れることなく、逆に「手を伸ばして彼にさわり」これもあり得ない行動です。イエスはすべての汚れを取り除くことが出来るお方。すぐに手を置いて「わたしの心だ。きよくなれ」私が喜んでよいものを与えよう。イエスは喜んで彼の思いと信仰を受け入れてくださった。即ちイエスがツァラアトの汚れを自ら引き受けたという意味になります。

すると、すぐに彼のツァラアトはきめられた。白い斑点がたちどころに消え元の皮膚が戻ったのです。このようにイエスはメシヤしか出来ないきよめのわざを神の権威もって行動で示したのです。イエスの思った事がすぐ結果になって現れる。これこそ神としての特徴です。

ここで、創世記1章3節の天地創造の時「神は仰せられた。光、あれ」すると光があったという聖句を思い出します。神がご自身の意志を言葉に表すとすぐ結果となって現れます。創造主の御業です。マタイの福音書ではイエスが、「わたしの心だ。きよくあれ」と言えば、その通りになりました。イエスこそ真の神である根拠です。その他イエスのいやしのわざについても瞬時に癒されている。これがメシヤのしるし、発した言葉が結果となって現れる神の御業です。

5:イエスはツァラアトの彼をきよめた後、旧約の律法に従って、彼に対し祭司に見せて、モーセが命じた捧げものをしなさいと勧めています。こうしてただきよめただけでなく、彼がのちに新しく生きられるようにその保証もしてくださった。最後まで人生を助けるのがイエス様です。
結び(今日もう一度私たちの罪とが全てを引き受けてくださった主イエスに感謝しつつ)
・疎外された(ツァラアト)人への愛を示すイエス。・きよめられた人が次の人生に進めるように助けるイエス。・信仰をもって助けを求める人を喜んで受け入れるイエス。このイエスの生き方から私達がどう生きるかが問われています。イエスのように完璧にできる人は誰もいません。でもたとえわずかであってもキリストにあるものとしての姿勢をもとう。ピリピ2:4~5(新約396)