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神の子イエス・キリストの福音

2023年12月10日 アドベント第2週

聖書箇所:マルコの福音書1章1節~8節
説教題:「神の子イエス・キリストの福音」

おはようございます。2023年12月アドベント第2週目を迎えることが出来感謝します。またネット配信を通して礼拝に参加してくださっているあなたもおはようございます。お元気でしたでしょうか?今日もあなたと共に礼拝出来ることを感謝します。今日も前回に続き福音書からクリスマスメッセージをしたいと思います。聖書箇所はマルコの福音書1章です。

先週のアドベント第1週はマタイの福音書からキリスト誕生について学びました。マタイはイエス誕生から公生涯、そして十字架の死と復活までをユダヤ人向けに書きましたので、まずキリスト(救い主)誕生の正当性を示すものとしてアブラハムの系図から書き始めました。一見、無味乾燥に感じますが、この系図の中に登場する人々に対する神の確かなお取り扱いが示されています。信仰深い王、不信仰で悪い王も沢山いました。神の前における罪びとの姿があり、今を生きる私たちには信じられないような事件も起きています。

また女性4人からも学ばされました。又バビロンから帰ってきた後の頃になると、王の家系でありながら人々から忘れられ埋もれていく時代になります。しかし、神の確かな導きとお取り扱いの中で救い主は誕生したのです。
こうしてマタイはユダヤ人読者にわかるようにメシヤ誕生について書きしるし、アブラハムから始まり、ダビデの子、ユダヤの王として預言通り誕生したキリスト(救い主)を伝えたのです。
 しかし旧約聖書のモーセ律法や預言についての知識が乏しい異邦人(私たちを含む)にはなじみがなく、理解するのが難しい側面があります。

一方、マルコの福音書を読むとすぐに気づきますが、系図もなければ、イエス誕生にまつわるクリスマスの話も何もありません。そして、いきなり1章9節から30歳の公生涯を迎えたイエスが、預言者ヨハネからバプテスマを受けている場面へと展開しています。
そして次から次へと話が展開していきます。簡潔に、なおかつ正確に「しもべ」イエスの姿が描かれています。マルコは若いころペテロの従者としてペテロが示したイエスについて正確に書き記したのです。この福音書の読者はローマ人を意識していたようです。そういう点では私たち日本人のように旧約聖書になじみがなく、知識が乏しくても理解しやすい書物と言えます。

また、マルコはイエス誕生からキリストの生涯すべてを書こうとしているのではなく、神の子でありながら「しもべ」として神と人に仕える姿を描いています。キリストこそ、人を罪から救う救い主であることを示したかったのです。故にマルコの福音書はキリスト受難の歩みや十字架の死、復活までを速いテンポで次から次へと書き記しています。それは実にイエスこそ、喜びのおとずれ(福音)なのであって、ここに焦点を絞って書かれているのがマルコの福音書であります。 それでは1節から見てまいりましょう。

1:「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という書き出しを通して神の御子イエス・キリスト誕生の喜びを待ち望みたいと思います。
・神の子イエス・キリスト 創造主なる神は父、子、聖霊による三位一体の神です。イエス・キリストはこの地上に「神の子」という立場で来てくださいました。私たちと同じ肉体を持つ必要があったので聖霊によりマリヤから生まれたのです。また子供であるからと言っても神より劣っているわけではありません。イエスは神としての性質を全て兼ね備えています。天地万物をつくり支配する神、全能の力を全て持っておられるのが神の子という意味です。

・福音のはじめ 福音と言う言葉は聖書以外になじみがない日本語ですが、喜びの知らせ、良い知らせ、良き訪れという意味です。そしてキリストの福音は人の価値観、生き方を根本から変える力をもっています。単なる良い知らせより以上に、神の子キリストは私たちの生き方を根本から変えてくださるお方です。私達が信じているキリストは私たちに対して常に関心を持ち、直接関わり、生きて働き、私たちの人生を良い方向へ導くお方です。

・「はじめ」は時間的な事より、むしろ根本、根底、根源という意味があります。私たちの喜びは何か?そうです、私たちの根本問題である罪から解放して下さる事によります。以上、ここをまとめると、私たちの喜びの源は神の子キリスト(福音)にあると言う事になります。そのように考えますとここにもクリスマスメッセージがあり、クリスマスの喜びがあるのです。

2~3:預言者イザヤはキリストが誕生する前に、その道備えをする人物が起こされる預言をしています。ここの預言はイザヤとマラキの預言ですが、マルコはイザヤを代表として書き記しています。荒野で叫ぶ者の声としての人物ヨハネ。彼は声なのでやがて消える立場の役割です。

4~6:主の道を備え、主の通られる道をまっすぐにする働き。これが旧約最後の預言者でありバプテスマのヨハネです。全国から彼のもとに人々が集まり、ヨルダン川で自分の罪を告白し、悔い改めのバプテスマを受けていました。6節にはヨハネが独特の風貌をしていたことも記録されています。ラクダの毛の衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べていたとあります。

7~8:人々から絶大な信頼を受け、神から遣わされた預言者として働いていたバプテスマのヨハネは言います。「やがて私の後に神の御子イエスが来られます。私には、かがんでその方の履物のひもを解く資格もありません」即ち全く自分とは別次元の方が来ますという宣言です。
 
正しくこれこそ、神の子イエス・キリストの福音のはじめなるお方の登場なのです。私たちの根本問題である罪を解決し、新しい命を与えてくださるお方の登場こそ、喜びの知らせ、クリスマスなのです。それ故、悔い改めのバプテスマ(水に浸す)ではなく、イエスは聖霊によって全く私たちを造り替え、命を与える聖霊のバプテスマ(キリストと命で結ばれる)に浸してくださるのです。ここに、私たちは真の喜びと希望が持つことが出来るのです。

結び
マルコの福音書には他の福音書と違いクリスマスの物語はありませんが、「しもべ」なるキリストの登場によって、真のクリスマスの喜びの知らせとなり、福音となってくださいました。今日もう一度私たちの為に「しもべ」としてこの世界に来て、最後まで十字架の死と復活を成し遂げられた主イエスの誕生をもう一度覚えてまいりましょう。