コロサイ人への手紙(12)

2023年10月1日

2023年9月24日

聖書箇所:コロサイ2章18~23節
宣教題:かしらにしっかり結ばれて

おはようございます。2023年9月第4週目を迎えました。9月もあっという間に3週間が過ぎていきました。でも暑い中にも多くの出会いや恵みを感謝しています。残り一週間も主にあって歩んでまいりましょう。またネット配信を通して本庄キリスト教会の礼拝に参加してくださっているあなたもおはようございます。今日はコロサイ人への手紙2:18~23を通して「かしらにしっかり結ばれて」というテーマで考えてまいりましょう。

先週は旧約聖書の祭りや儀式に重要な意味があることを学びました。但しこれらは来たるべきものの影であって、本体はキリストにあると言うのが結論です。最終的には私たちが主イエス・キリストにつながっていることがポイントです。その為にも旧約聖書の学びを大切にして、より深くイエスご自身を求めてまいりましょう。そこが確立されないと旧約時代の儀式そのものを重要視してそれを守る事のみに心奪われ、本質的な意味を見出せず生き方も変質してしまいます。

 さて今日はこの続きですが、いつの時代のキリスト教会にも戦いがありました。その背後に潜む悪魔、悪霊の存在です。しかも巧妙に聖書と違う事を、聖書の教えだと言って売り込んでくるのです。この戦いを霊的戦いと言います。当時のコロサイ教会の人々もこの霊的戦いの影響を受けていました。

18:まずは自己卑下。これは謙遜とは違います。神の前に自分の力がないことを認めて神を信頼するのが真の謙遜の意味です。自己卑下は殊更自分を価値がないものとしますので謙遜と思いがちですが謙遜ではありません。多分自己肯定感が低いのだと思います。日本人はこの手の人が多いかもしれません。

では自己卑下とは何か?これは信仰に関することで、キリスト信仰者はイエス様の十字架の御業を信じて救いを受けます。この時、目に見えませんが直接イエスとつながり、イエスの命を受けます。それが19節の「かしらなるイエスに結ばれる」と言う事です。それ故イエスに祈りイエスに信頼し、励まされて生きるのが普通のキリスト者の生き方です。ここに居る皆さんはそのように生きていると思います。何か悩みがあればイエス様に祈るでしょう。

でも自己卑下する人はそうしないのです。「自分のような愚かなものがイエスと直接つながることは、身の程知らずで、恥ずかしい」と考えるのです。そこで前段階として他の誰かを仲介者としてイエス様とつながるのです。謙遜のようですが、神の前ではその逆です。私たちは救いを受けたら誰の仲介を通すことなく、主イエスから直接アドバイス、励ましを受ける立場に居ることを確認してまいりましょう。

・み使い礼拝 皆さんはみ使いを礼拝したことはありますか?ありませんね(正解)。主イエスを礼拝するのであって、み使い礼拝をすることはありません。でもコロサイ教会にはみ使い礼拝者が忍び込んで教会を混乱させたのです。では、そもそもみ使いとは何か考えてまいりましょう。
①メッセンジャー(使者)として天において神に仕える超自然的存在、霊的、人格を持っている。②私たちに仕えてくれる。ヘブル1:14(新約438頁)
③み使いは神によって創造された被造物なので礼拝の対象ではありません。
④性別を持たず結婚することはない。でも現れる時は青年。マタイ22:30 (新約47頁)
⑤自由意思を持つ人格的な存在である。よって堕落したものも存在した。それが堕天使の長 悪魔、その子分が悪霊ども(無数に存在する)です。Ⅱペテロ2:4 (新約474頁)

ペテロが教えているのは創世記6章1節~12節(旧約8頁)に記録されているノア時代に、人間の女性に情欲を抱き性の関係を結んで罪を犯したみ使いの事です。堕天使と人間の女性の間に生まれたのが超人ネフィリムです。神はこの悪の行為をご覧になり、このみ使いどもを裁きの日に地獄へ送るため、暗闇の縄目(穴)に閉じ込めた。この場所をタルタルスと言います。
こうして人は神に逆らい続けたため、人の命のタイムリミットが120年でした。ついに神は地上から人を消し去ろうと決心し、40日40夜大雨を降らせ裁きを行ったのです。

以上み使いは礼拝の対象ではなく、神と人との間を取り持ってくれる存在にも拘らず、礼拝したのです。そればかりか、コロサイ信仰者たちに対して「お前たちは間違っている」と断罪したのです。でも彼らこそ自分が見た幻により頼んで思い上がってしまったのです。

19:それは、かしらにしっかり結びつく生き方ではありません。かしらとは根源、源、源流という意味があります。そうです。主イエス・キリストこそ教会のかしら、根源なのです。このキリストを礼拝し、キリストにつながっていることを確認しながら生きるのが最もなすべきことなのです。今日覚えるべきことは教会のかしらはキリスト。このかしらが元になって体全体がつなぎ合わされ神に育てられて成長するのです。私達がキリストの愛で互いに結び合わされ続け(つながり)、助け合ってキリストを見上げていくなら神が成長させてくださるのです。

そういう事で私たちが、かしらなるキリストに直接一人一人がつながるかが成長のカギです。牧師につながっていても成長しません。つながるべきはキリストです。

20~21:キリストを信じた人はキリストと一つにされました。故にキリストが死んだ時、あなた方も共に死んで、キリストとともに復活したのです。この世の諸々の霊(悪霊)から来る言い伝えともおさらばしたのです。死んだ故、過去の生活ともおさらばしたのです。

それならどうして様々なものに縛られているのですか。コロサイ教会員は元々偶像崇拝の世界の中で生きてきた人々で、日本人なら何か悪いことをしたら「罰が当たる」「閻魔様に舌を抜かれる」というようなもの縛られた。それが21節の言葉です。つかむな。味わうな。触るな。

肉体は悪という考え方があるので、禁欲的な生活を求め(つかむな)、また食欲は悪であると言う事になるので(味わうな)。夫婦、結婚関係における性欲も悪であるから(触るな、つかむな、さわるな)という教えになっていきます。これは聖書から出たことではなく諸々の悪霊からの教えです。22:これらはすべて聖書から出た事ではなく人間的な教えから出たものです。

結び
23:これらは知恵あるように見えますが、価値なく、自分の肉の思いを満足させるだけです。それ故主にあるものは、かしら(キリストに)にしっかり結ばれて生きる事が求められています。