コロサイ人への手紙(7)

2023年8月20日
聖書箇所:コロサイ1章24~29節
宣教題:あなた方の中におられるキリスト

おはようございます。2023年8月第3週目を迎えました。皆様と一緒に礼拝をささげる恵みにあずかり感謝です。またネット配信をご覧のあなたもおはようございます。暑い日が続いていますがお元気ですか?本庄キリスト教会の礼拝にご参加くださり嬉しく思います。
 
さて前回21節~23節を通して信仰に留まれというテーマで考えましたが、信仰に留まるポイントは何でしたか?①信仰を土台に据え固く立つ。何事も主イエスへの信頼が必要です。そして主イエスを信頼しながら物事を進めると主は誤りなく導いてくださる。②福音の望みから外れない。再臨信仰に生きる。主が間もなくこの世界に帰ってくる事を待ち望む。なぜ望みか?再臨により私達が栄光の体に変えられる。③福音を宣べ伝える。福音は人が神と和解し、人生が希望に変わる力があるので全世界に伝えられるべきもの。④使徒パウロは福音に仕えるものとされた。私たちはパウロと違い使徒に任ぜられていませんが、キリストの証人として福音を証しするよう全員が主から立てられています。以上を確認しながら主イエスへの信仰に留まり歩んでまいりましょう。

続いて今日は7回目1:24~29からです。ここはパウロ自身の事や奥義が述べられています。

24:パウロはローマの獄中からコロサイ教会あてに手紙を書きました。喜べる環境にはありません。でも彼はあなた方(コロサイ教会)の為に受ける苦しみを喜びとしていますと告白しています。何故、苦しみが喜びなのか?普通クリスチャンでも多くの場合、苦しみ=喜びというわけにはいきません。何故私だけがこんなに苦しまなければならないのかと考え悲しみます。しかし、パウロはキリストの苦しみにあずかれた事を喜びと受け止めました。私達も同じです。不思議なもので主に信頼するものは苦しみをキリストの苦しみにあずかれたと受け止め喜びに変わってくるのです。

 続いてパウロは告白しています。今、彼は投獄され苦しみを、キリストのからだ(地域の教会と目に見えない普遍的教会、神に召された者の群れ)なる教会の為に自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」誤解しやすい言葉ですが、これはキリストの十字架の御業が不完全であり、不十分なのでそれを補う為に自分が頑張ると言っているのではありません。キリストの十字架の御業による救いは完全です。
キリストの苦しみは、キリストの体である教会の中に常に現わされているのです。キリストと私達キリスト者が構成するキリストのからだなる教会は常に一体ですから。それ故あらゆる苦しみをキリストと共に乗り越えながら完成を目指して成長して行くのがキリストのからだなる教会の生き方です。

25:パウロは主イエスから直接召命を受けて使徒職に任ぜられました。使徒は「遣わされた者」という意味で特別職です。新約聖書時代に任命された役職で、教会の益の為に神に立てられた特別権威を持つ職務です。今の時代はどんな優れた伝道者や牧師であっても使徒とは呼ばれません。

26:使徒職は一般の働き人とどこが違うか?神の奥義を余すところなく信徒に伝える能力を受けたことです。奥義は神が旧約聖書時代には隠されていたが新約聖書時代に明らかにされることを奥義と言います。神はご自分のなさる事をすぐ全部明らかにせず、少しずつイスラエルの民に示してきました。最初にモーセを通して律法を与え、次に預言者を遣わし、やがてメシヤであるイエスが来られた時、このお方こそ道であり、真理であり、命であることを示されたのです。そしてイエスの十字架の御業を信じる信仰によってのみ人が救われる事を余すところなく知らせたのです。

こうして異邦人もユダヤ人と同じ共同相続人となり、同じキリストのからだなる教会に連なる約束にあずかることを示した。でもこれがユダヤ人の反発にあいパウロは迫害された。当時多くのユダヤ人はこの神の奥義を理解し受け入れることはできませんでした。これは今の時代も続いています。自分達だけが神に選ばれ祝福を与えられるべきアブラハムの子孫であるという意識が強い。
 
27:この奥義が異邦人(ユダヤ人以外のギリシャ人、ローマ人、そして日本人も異邦人ですが)その中で、どれほど栄光に富んだものかはかり知れません。何故そう言えるのか?キリスト教会(エクレシヤ:神に召された者達の群れ)は見えないキリストのからだであり、家族、共同体です。

キリストが教会の構成メンバーである私たち一人ひとりの内におられるからです。これをパウロは奥義であると言います。 これは新約聖書の時代になって明らかにされた神のみわざです。キリストが私たち一人ひとりと共に住んでくださる。聖霊が私たちの内に住んでくださると言う事はよくわかりますよね。御霊が内住しているとか言いますね。

でもコロサイ書ではあなた方の中におられるキリストと言っています。イエスと聖霊は本質が同じ神で、このお方は世界を創り今も保持しておられる神で、イエスは第二位格、聖霊は第三位格の神として私達と共にいてくださる。創造主なる神が共にいるのはどれほど栄光に富んだものか。

もう一つの奥義「キリストこそ栄光の望み」究極の栄光の望みは何か?空中再臨とやがてこの地上に戻ってくる地上再臨のキリストです。これこそやがて来る神の栄光を実現する望みです。このお方が戻ってくれば反キリストによる世界戦争が終結し、地球環境はがらりと変化します。まさしく栄光の望みなるキリストです。

28:こうして使徒パウロは神の奥義であるキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもってすべての人を諭し、教えてきたのです。彼の願いはすべてのキリスト者が成熟した(十分に成長した一人前のキリスト者)として神の御前にたてられる事です。ぜひ私達も主イエスに整えられ、知識面でも、行動面(隣人愛の実践)でも大人の信仰者を目指して歩ませていただこうではありませんか。

29:パウロはすべての人たちが成熟した信仰者として成長するために日夜奮闘していたが、彼は自分の内に力強く働くキリストの力によって奮闘しているので疲れることはなかった。ここが大切な信仰生活のポイントですね。自分の頑張りで奮闘すると疲れが出て長続きしません。

結び
今日の箇所をまとめるなら①キリストが私の内におられる(27節)。②究極的にはキリストの再臨こそ栄光の望み(27節)。③キリスト信仰者は信仰的にも人間的にも成熟(隣人愛の実践)を目指そう(28節)。④自分の内に力強く働くキリストの力によって生きよう(29節)。⑤キリストのからだである教会を苦しみつつも共に建て上げていこうではありませんか(24節)。