コロサイ人への手紙(6)

2023年8月13日
聖書箇所:コロサイ1章21節~23節
宣教題:信仰にとどまれ

おはようございます。2023年8月13日第2週目を迎えました。皆様と一緒に礼拝をささげる恵みにあずかり感謝です。またネット配信をご覧のあなたもおはようございます。暑い日が続いていますがお元気ですか?本庄キリスト教会の礼拝にご参加くださり嬉しく思います。
 
毎年8月になると話していますが、日本人にとって8月は最も大切な月です。78年前の太平洋戦争ではアメリカによって広島と長崎に原爆が落とされ累計で50万人以上の人々が死亡しています。また民間人を含め310万人(軍人・軍属230万人・民間人80万人)に日本人が死亡しています。民間人はアメリカの無差別攻撃や爆弾を落とされて死亡しています。
兵隊さんの戦死者は食料が無く餓死した人が多いのです。私の兄たちの父親は岡部の出身ですがトラック諸島で餓死して死んだと言われています。また忘れていけないのは日本人がアジア、太平洋地域で約2千万人殺したと言われています。そして家を焼き、暴行し、財産を奪ったのです。
日本の歴史上最も大きな悲しみです。今私達に出来る事は歴史を学び、諸外国の方々との平和を築いて共に生きる事です。

さて今日はコロサイ人への手紙から6回目の学びになります。準備はよろしいですか。聖書箇所は1:21~23になります。先週は御子イエスの真実の姿を2つの視点から考えてみました。①18:御子は初めであり、死者の中から最初の生まれた方。②20:御子イエスはその十字架の血によって平和をもたらした。ここまでが15節から続く御子イエスの真の姿でした。今日はイエスの御業により私たちが受けた救いの恵みを考えてまいりましょう。

21:ここはコロサイ教会の人が救いを受ける前の状態を述べています。ということは私達にも当てはまります。「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが」

私たちすべてがかつては神から離れ、神に背を向けていた存在です。何故なら私たちもまたアダムの子孫として罪の性質を受け継いでいます。これは理屈抜きで誰もが経験済みで、自分の心の中にはコントロールすることができない悪があることに気づくはずです。これを原罪と言いまして一生消すことはできません。アダムとエバが悪魔の誘惑を受けて神に背き木の実を食べたことに始まります。この時、人は神に背を向けて離れ、肉体的な死と霊的な死を受けるようになりました。神との断絶ですね。

人は本来神に向かって、神とともに生きるべき存在でしたが、人生の生きるべき方向性、的を外している状態を聖書では罪と言います。それ故すべての人は神の前に在って罪人と言われる所以です。人はいったん神に背を向けると、どんどん悪い事を平気でするようになります。良心がマヒするので悪い事をしても罪悪観を感じないようになります。人の良心は神から離れた状態が続けばマヒしてやがて腐ってきます。このように程度の差こそあれ、すべての人は生まれながらアダムの罪の性質を受けており、神から離れた罪人なのです。儒教では、一部の例外の除いて人を性善説の立場で理解しますが、聖書はその逆で性悪説の立場をとります。この人間理解が大切ですね。自分自身を筆頭にして人は神から離れ、神に背を向けた存在なのです。

敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが 私は創造主なる神を知らなかった時、敵意を抱くというような大それた思いはありませんし、神への意識もありません。神について全く無知な存在で、人間同士のレベルで良いか悪いかだけの考え方でした。創造主なる神を中心に物事を考えていく事もありませんでした。今思えばそのような神無しの世界観こそが神に敵意を抱くことなのだと思わされます。これはかつての私の姿であると認めざるを得ません。

22:ここはキリスト者の今の立場を述べています。神との関係が和解されました。即ちアダムの罪の影響下にある私たちは、御子イエスの肉の体が十字架上で犠牲(死)となり、神と和解することが出来ました。御子イエスの肉の体、この言葉は異端グループグノーシス主義者の教えを意識して書いてあります。彼らは霊が善で、物質は悪だと教えます。

でも聖書は物質が悪だと教えていません。それ故、主イエスは神でありながら人として地上に来て下さり、ご自身の肉体の死を通して私たちへの救いの道を開かれたのです。あの十字架上で罪のないキリストが尊い本物の血を流された事により、私たちは真の罪の赦しと永遠の命を受ける事が可能になったのです。

22節後半:神と和解した結果、キリスト再臨の時の事を述べています。キリスト者は完全に(聖なるもの)(傷のないもの)(責められるところのないもの)として神の前に立つことが出来るようにされました。これこそ私たちの未来の希望そのものであります。

23:ここは、このくくりの結論部分で神の恵みに対して私たちがどう答えて生きるべきかの勧めです。「ただし」は「だから」又は「ですから」と読み替えるとわかりやすいです。どんな勧めか?ズバリ信仰にとどまれです。信仰の意味は主イエスに対する信頼です。主イエスは私たちの信頼に対して裏切ることなく応えてくださいます。

信仰に留まる具体的な内容は次の4つです。
①信仰を土台に据え固く立つ何をするにも主イエスへの信仰(信頼)が私たちの信仰の土台です。いつも主イエスを信頼しながら物事を進めていく。主は誤りなく導いてくださる。
②福音の望みから外れない。再臨信仰です。主が間もなくこの世界にもう一度来ることを待ち望む事。なぜ望みか?再臨によって私たちはキリストの前に立ち栄光の体に変えられるのです。
③福音が宣べ伝えるこの福音は人が神と和解し、人生が希望に変わる力があるので全世界に伝えられるべきものであります。
④使徒パウロは福音に仕えるものとされた。私たちはパウロのように特別な使徒に任ぜられていませんが、キリストの証人、あかし人としてキリスト者全員が福音を証しするよう立てられている。

結び
私たちもキリストの十字架の御業(福音)を信じてそれぞれの人生が大きく変えられました。
是非これからも主イエス・キリストを様々な角度から理解を深め、学び、体験して信仰にとどまり続けようではありませんか。
そして私たちの信仰はただ主イエスに信頼して、主から力を受け、恵みによって生きる。これはある意味非常に楽で自由な生き方です。毎日の生活の小さなことの中で、信仰に留まり、主を信頼し生き続けようではありませんか。