受難のメシヤ

2023年4月10日

2023年4月2日
参照聖句:イザヤ書53章1節~12節
説教題:受難のメシヤ

皆さま。おはようございます。2023年4月第1週目主の日を迎えました。今日から受難週が始まりました。今週はキリストの苦しみ、特に十字架上での苦しみ覚えることが出来れば幸いです。
またネット配信をご覧のあなたもおはようございます。お元気でしたか?ネット越しでは有りますが共に礼拝をお捧げ出来ますことを感謝します。それではイザヤ書53章1節~12節から共に学んでまいりましょう。
 
 主イエスは救い主としてこの世界に来てくださった神の御子です。しかし突然この世界に来たのではなく、実に誕生4千年前から神の民に聖書預言として知らされていました。時至り今から二千年前にその誕生によって実現したのがクリスマスです。私たちは毎年お祝いしていまがキリスト誕生の目的は何だったのでしょうか?

実は人間がどうしても解決できない私たちの心に根付いている嫌なもの、人類共通の罪(的外れ)ですね。この罪の悩みからあなたを解放するためです。神によって神の形に造られ、神と共に生きるように造られた人は神を離れ、神に背を向け、自己中心に生きるようになりました。それ故、私たちは最終的に罪の責任を問われますが、罪から救ってくれるために地上に来られたのがキリストです。
旧約聖書時代に預言されていたのが新約聖書の時代になり実現したのです。誕生は2千年前に実現したのです。ではキリストはどのように人を罪から救い、解決の道を示されたのか。福音書に記録されているイエスの生涯、十字架の御業によって解決の道を示しました。

旧約聖書預言のメシヤ(キリスト)像は、苦難のキリストと、栄光のキリストの2種類あります。かっこ悪いキリストとかっこ良いキリストです。今日は苦難のキリストという視点から考えます。苦難を通して人を罪から救うキリスト(メシヤ)の姿ですね。先ほど読んだイザヤ書53章には、そのキリストが預言されています。

ここにはキリストの生い立ち、生き方、死の迎方、死の理由が驚くほど克明に描かれています。イザヤがイエスの時代に生きていたのではないかと思うくらいです。でも実はイザヤ書が書き記されたのはイエス誕生の700前です。イザヤ書は神の霊感によって誤りのないように書き記された預言書で、私たちが安心して学ぶことが出来る書物です。更に聖書66巻は神が預言者たちを通して誤りなく書かれた書物ですから一生をかけて学べる書物で有ります。イザヤ書では受難のメシヤについて52章13節から書かれていますが、今日は53章から順を追って4つの構成についてみてまいりましょう。

①キリスト(メシヤ)の現実の姿について、1~3
2:「ひこばえ」とは切り株から出てくる若枝(新芽)のことですが、この文脈は良いイメージではありません。何故なら、砂漠の地から出た根のようだ。目立たないで育ったと言う事です。
映画などで登場するイエス様の姿はハンサム、男前の人が出てきます。そうでないと映画がヒットしませんので。でも実際のメシヤ像は逆なのです。私たちが見るべき姿もなく慕うような見栄えがしない。姿かたち、容姿において全くの落第点と言う事です。大分イメージが違いますが実際のイエス様は容姿端麗ではないのが真実です。がっかりですか?3:人が顔を背けるほど蔑まれていた。イエスは人から軽蔑の対象になっていた。でもこれにより私たちがコンプレックスから解放され安心します。又神の人間に対する大きな愛の配慮の大きさを感じます。人の価値は人間的な見た目ではないことを示しています。なんだか安心するのは私だけではありません。

②キリスト苦難の意味 4~6
ここにはキリストの苦難(十字架)の意味が書き記されています。これが私たちとの関係できわめて大切です。キリストの十字架の御業は私たちの背きの為、私たちの咎(罪)の為というのが理由です。キリストは革命に失敗して死んだのではありません。又殉教の死を遂げたのではなく、人(全人類)の罪の身代わりとして神に打たれ、苦しまれた。キリストの十字架上における直接の死の原因は息が出来なくなった窒息死で、極度の苦しみでありました。でもそれ故、私たちがキリストから来る平安と命を受ける。神が人のすべての罪・咎を彼(キリスト)に負わせた。それを信じたら救われるのがキリストの救いです。

③キリストの性格は神への従順7~9
彼は自分の使命を明確に持っており実行しました。苦しめられても口を開かず。7:屠り場にひかれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように口を開かない。実際キリストは預言の通り十字架刑を従順に受け止め、そのように死んでいきました。新約聖書の福音書を見るとこの通りです。勿論キリストの神への従順な生き方はその生涯を通して表されています。神の御心を第一にしたそれに従順する。私たちに対する模範です。

④キリスト苦難の御業は主の御心にかなっていた。10~12
 苦難のメシヤの姿は、華やかさはなく、私たちががっかりするような事でした。誰もそこに救いがあるとは思いもつきませんでした。でも人の罪を背負い代わりに刑罰を受け、それを信じたものを救うのが神の計画(すなわち御心)でありました。これらの一連のイエスの行動は神が望まれ、又、喜ばれたことでありました。

 以上イザヤのメシヤ預言、特に苦難のメシヤをポイントを絞って見てまいりましたが、まとめると、キリストは、決して見栄えはよくありません。そしてキリストの十字架上での苦しみは革命や自分の弱さが原因ではなく、私やあなたの背きの罪の身代わりとしての御業でありました。自分の罪深さを認めキリストの身代わりの御業を信じる者は罪赦されて新しい人生を生きるのです。
その為にキリストはあの十字架上で神に従順に従い苦しみを耐え忍ばれました。

今週は受難週で有りますが、もう一度イエスの生き方、十字架の苦しみの意味、そしてどこまでも神の御心に従順な生涯、神の御心を喜ぶ生活こそが私たちの生きる道であることをもう一度味わいながら過ごしてまいりましょう。また来週は苦難の御業を乗り越え、死人の内からよみがえられたキリストの命を味わってまいりましょう。お祈りします。