マタイの福音書(10)

2022年12月24日

2015年3月8日
聖書箇所:マタイ5:21~26
宣教題:和解の勧め  

先週日曜日は●●の●●兄弟の葬儀がありバタバタしてしまい申し訳ありませんでした。皆様の協力により無事に前夜式、葬儀、納骨式を執り行うことが出来ました。88歳で主のもとに召されましたが前日まで元気にネギの下ごしらえをしていたそうです。しかし主のご計画の中で「あなたの地上の生涯はもう今日で十分」という事で主は命をお取りになりました。「主は与え、主は取られる、主の御名は、ほむべきかな」とヨブ記にある通りです。
私たちは主に生かされている存在ですので、いつ主のもとに召されるか誰も分りません。家族や牧師が慌てないように、是非60才過ぎたら遺言状を書くことを勧めます。勿論私も公正遺言証書を書いて備えはしてあります。また「私の葬儀の備え」という用紙を受け付け隣に置いていますので是非お書きになり私に渡してください。そうでないと残された方が迷ってしまいます。キリスト者として人生の最後に信仰に基づき葬儀を行うことは私たちの務めだと思います。

さて今日も続けてイエスの山上の垂訓から学びましょう。マタイ5:21~26です。山上の垂訓の前提を確認していますが、これはモ-セ律法の真の意味をメシヤであるイエスが正しく解説したものであります。特に覚えるべきことはイエスが弟子たちに対して、神によって義とされた者に対して幸いだね、あなたがたは・・・と語りかけて、信仰者が持っている救いの結果、心の変化、特徴が更に成長していくようにとの思いをもって主が語られたものです。この点を押さえて山上の垂訓を読むと理解が深まります。

イエス様は21節~48節までを通してテーマを6つ挙げて話してくださいました。殺人、姦淫、離婚、誓い、復讐、敵への愛についてです。今日は時間の関係で最初の和解の勧めについての勧めです。
21節からの話の前に聖書の読み方について確認しておきたいことがあります。聖書は字義通り、そのまま読むことが基本です。字義通りとは著者が何を言おうとしているかをくみ取りながら読むことです。逆に文字通り読むと大変なことになります。例:27節~30節姦淫についてイエスは人の心の中に踏み込んでいます。29節~30節は誇張法と言ってオオバーに言っています。何も文字通り目を抉り出しなさいとか、右手を切って捨てなさいと言っている訳ではなく、大切な事をオオバーな表現をしているのです。もし文字通り理解するなら教会に来ている人は皆右目がなく、右手が無くなっています。その様な訳で著者は何を言おうとしているのかを読み取る読み方が字義通りに読むと言うことになります。常に前後関係や文の流れを見ながら著者の言いたいことを読み取る訓練をしましょう。
21
この鍵かっこの部分は聖書の言葉ではありませんので誤解の無いようにお願いします。これはパリサイ人、律法学者と呼ばれるユダヤの指導者が旧約聖書モーセ律法を解釈して口頭で昔から人々に伝えられてきた内容です。これはイエス様の時代にはまだ文書化されていませんでした。口で伝えられてきましたので口伝律法とか、言い伝えとか言われています。これが200年後に文書化されてミシュナと言われます。やがて有名なタルムードになっていきます。人を殺してはならない・・・これはモーセ以前から聖書に書かれていることで人殺しは悪い事であることは誰もが承知している事です。例:最近も川崎で中学1年生が18歳の子どもたちに殺されてしまった事件がありました。悲しい事件です。
22
でもイエス様は更に人の心の内面に切り込んでいます。しかし私はあなた方に言います。イエス様によるモーセの律法の真の解釈が次に出てきます。肉体を殺すばかりでなく心の面に焦点を当てているのがイエス様の鋭さです。
①兄弟に向かって腹を立てる者。正当な怒りではなく悪い怒り。感情のままに怒ること。
⇒法廷に訴えられて裁かれる
②兄弟に向かって能無し(兄弟を侮辱する)頭がカラである。価値がないというもの。
⇒最高議会。サンヘドリンにて訴えられる。
③兄弟をばかもの。罵る。生きるに値しないものという意味。日本では死ねとか。
⇒ゲヘナ エルサレムの外にあるヒンノムの谷という意味。ここは昔からごみが捨てられ、火が燃えていた。それがゲヒンノムと呼ばれ、そこからゲヘナという言葉が出ています。地獄、火の池と同じ意味になります。そこに投げ込まれる。だんだん刑罰が重くなっていきます。
23~25
このように外面的な事、すなわち殺人はしていなくてもイエス様の目から見れば人を馬鹿にしたり蔑んだり、罵る者は既に殺人を犯したと同じ事だと言うのです。だから隣人との間で不当な怒りや喧嘩をして争った場合、祭壇の上に供え物をする、すなわち信仰的なようにふるまったとしても人との争いがあるならば、それは神に喜ばれない事だから、外面的な信仰の行為はさておき、あなたの兄弟と仲直りを優先して行いなさい。すなわち人と和解しなさいと言っているのです。何でもかんでも訴えてやると言って裁判をするのではなく、人間関係においてはまず仲良くなりなさいと勧めています。和解することが先決です。
26
(まことに・・・これから真実を言うから良く聞いてねという意味です)でないと自分の非を認めない人は裁判の結果負けてすべての財産を失う羽目になる。このことをよくよく言っておきます。

私たちへの教訓は何か。
和解する心を持とう
私達は互いに欠けのある者ですから失敗をします。口も滑らして人を傷つける事もあります。人を赦せないと思う事もあります。その時話が大きくなって告訴してやるとか、裁判に訴える事があるかもしれません。でもそれは最後の手段であって、その前に良くお互いが話し合って和解をすることが肝要です。私達キリスト者も常に人に対して寛容な心をもって接していきたいと願っています。その結果仲直りできる人間関係でありたいと願っています。そうすれば世の中はもっともっと変わってきます。裁判は最後の手段ですね。
今日の暗唱聖句 マタイ5:24

結び 
今週もキリストの心を心として生きる事を願って歩んでまいりましょう。そして相手をけなすのではなく、自分よりもすぐれたものと思いつつ歩んでまいりましょう。そうでないと教会に人が来なくなります。私たちは天の御国に移されるまで日々成長、日々訓練、日々聖化されつつ歩むのです。キリストの弟子たちが訓練されていったように私達も主から訓練されて生きるのです。お祈りいたしましょう。