ヤコブの手紙(3)

2022年12月13日

2015年11月29日
聖書箇所:ヤコブ1:19~27
宣教題:信者の品性 

今日からアドベントに入ります。心静かに主を覚えましょう。
ヤコブの手紙3回目になります。確認をしますが、ヤコブはこの手紙を通して散らされた12部族の信徒たちに何を知らせたかったのでしょうか。イエス・キリストの救いを受けるために良い行いをしなさいと命じているのでしょうか。そうではありませんね。キリストの福音を信じて救いを受けた人は、信仰と恵みの中で生かされていきます。結果としてキリストの命を受け新しくされましたので様々な行い、良い業を実行する人に変えられます。だから良い業が出来るのです。勿論、この良い業、行いも、自分の力でするのではなく、み言葉の力、聖霊の力によってさせていただくことができるのです。これがクリスチャン生活の基本、または前提であります。
ヤコブはこの手紙の中でこのことを前提にして述べている事を踏まえて学んでまいりましょう。

○みことばを聞いて受け入れるとは 19~21
9節から見てまいりましょう。ここは前の流れの続きです。愛する兄弟たち、そのことを知っているのです。その事とはどの事でしょうか。それは前に節にある、キリストの救いは真理のみことば、キリストの福音を信じる事によって受けるのだと述べているのです。そして真理の言葉、福音を聞いて信じた者生き方はこのような生き方述べています。これは私たちの本来の性質、考え方、生き方とは反対の事が多いので心して受け止める必要があります。
・聞くには早く・・・人の話はよく聞く。祈りの時サムエルのように「主よ、お話しください。僕は聞いています」とイエスの声を聞いてから行動する習慣を身に着けると大きく外れる事はありません。たとえ失敗しても回復が早いです。
・語るのは遅く・・・人との関わりの中で人の話を聞いてから自分が話す。話す割合は自分が3、相手が7、または4体6ぐらいにすると良いと思います。私たちの性質は自己中心ですから自分だけ話すことが多いのですが、より良い人間関係を築いていく為には一方的に話すよりも聞くことを心がけ、語るのは遅くしてみましょう。
・怒るには遅く・・・怒りっぽいと関係が壊れやすくなります。何故なら人の怒りは神の義を実現しないのです。 怒りは出来るだけ遅くなることが最善です。
21:聖書のみことばを素直に受け入れる。このような人は恵みを受けて主の力を受けます。

○聞いたみことばを実行する 22~25
次に聞いたみことばを実行する事です。しかも、みことばを実行するのは自分の力により頼むのではなく、神の言葉により、聖霊の力によってより頼んで生きる事です。これが私たちの生き方の基本です。み言葉は私たちの本当の姿をあらわにしてくれるものです。しかし、みことばをきいても実行しないで、「いい話だった」だけで終わらせるのは、生まれつきの顔を鏡で見るだけの人のようであり、自分への反省というものを忘れた人間の事だとヤコブは言います。
25:しかし自由の律法を一心に見つめて離れない人、すなわち神の御心を第一に願う人、そして隣人を愛する人は神の言葉を忘れないので、みことばを実行する人です。そのような人は神からよいものを沢山受けます。

○真の敬虔とは貧しい人々への愛に生きる 26~27
神を愛し隣人愛に生きる人は形が違ってもそれぞれが良い行いに生きている。次に出てくるみ言葉がその具体例であります。宗教に熱心とは:ここでは3回も宗教(religious)リレジェスという言葉が出てきますが宗教とは神を敬う心の事です。26節:自分は宗教に熱心であると思っても、自分の口に轡をかけず、自分の心を欺いているとは、外面的には敬虔な信仰者のように人に聞かさせる祈りや宗教儀式を守る事に熱心であるけれども、その心は神から遠く離れているという事になります。ヤコブはそのような人の宗教は空しい、無意味だと断言しています。

では何が本物の信仰者の生き方か。それは孤児やもめたちが困っているときにお世話をする人です。別の言い方をすると弱い立場の人を常に顧みて共に生きる事です。これが新しく生まれ変わった人の生き方です。
この点で私たち福音派と呼ばれる教会は弱い面があります。それは代々人の救いに軸足を置いて活動してきたからです。その結果多くの人が救われましたが、救われた後はい一丁上がりとなってしまいました。牧師が礼拝や祈り会で聖書から宣教しても、一方通行的な面が多くありました。それゆえ信徒は聖書を表面的に理解している程度となってしまいました。信仰歴が30年40年たっても救いの教理を求道者に教える事の出来ない人が多いです。これは教師である牧師の責任です。

この終末時代にあってイエスやパウロたちのように向かい合って聖書が何と言っているかという問答形式の学びを通して聖書理解を深めていく事が大いに必要です。具体的には聖書をイスラエル的視点や、文脈(コンテキスト)を大切にして読み、字義通りに言葉の意味を良く読み取り、出来うる限りそのまま読むことです。勿論たとえは譬えとして理解します。そして自分に対して適用。

そしてキリスト者は自分に与えられている賜物を生かして、この世界、地域、町の繁栄の為に自分の役割、使命を自覚して生きるという視点が必要です。その為にもキリスト教会の存在は地域で知られる存在になる必要があります。私たちが教会外の人に目を向けると『孤児ややもめ』の方々が多くいます。この日本においては6人に1人の子供が貧困家庭であると言われる現実があります。

そのような中で私たちは如何に生きるべきかをヤコブは私たちに語り掛けているのです。これからあなたや私を通して児玉郡市の人たちが幸せになれる事をもっともっと考えながら進んでいければと思います。その為にも私たちは父なる神のみ前で聖く汚れのない本物の信仰者になる必要があります。言葉と行いが一致している人であります。

適用 聖書を読み直して信仰の点検しよう
自分は行ないのない死んだ信仰か、それとも隣人愛に生きる信仰者か。大きなことをする必要はありません。あなたの身の回りの方々の為に祈り、小さな親切、小さな愛の業から始めましょう。イエス様の御声を聴いて信頼して主のみ心を一歩進めてまいりましょう。これこそ信者の品性です。

暗唱聖句 ヤコブ1:22 
ヤコブは試練の中にある多くの仲間を励まして手紙を送りましたが、それは信者がみことばを実行する生き方こそ本物のキリスト者であるという事でした。自分はどのように生きるべきかをもう一度確認しながら進んでまいりましょう。