マルコの福音書(61)

2022年12月13日

2018年1月28日
聖書箇所:マルコ12:41~44
宣教題:神に喜ばれる信仰とは 

いよいよイエスの公生涯も終わりに近づきました。今日の聖書箇所は十字架に掛かる週の火曜日の出来事であります。火曜日は長いですね。今迄の流れはイスラエルの指導者たちが入れ代わり立ち代わりにやって来てイエスを陥れようとしました。しかし逆にイエスに論破されすごすごと帰って行きます。そしてイエスは弟子達や群衆に向かって律法学者の本当の姿を彼らに教え彼らには十分気を付けよと警告したのです。
続いて今日の話は神殿での最後の教えとなり貧しいやもめの献金についてであります。今迄はイエスに反感を抱く人が攻撃を仕掛けてきましたが、ここではそのような嵐はなく静かに信仰の光があらわされるような場面となります。
それでは背景から確認してまいりましょう。日時は過ぎ越しの祭りが行われている週の火曜日、即ち十字架刑の火曜日、律法学者達はイエスの怒りを恐れ帰って行きました。弟子達もイエスと少し離れたところにいます。神殿から一番離れたところに異邦人が入れる庭があり、そこから少し中に入ると婦人の庭があります。イエス様は今ここにいます。女性も入れるという場所ですね。ここの壁の献金箱に向かって座っていると所です。因みに婦人の庭の奥にイスラエルの庭があり、更に先が神殿本体になっていて聖所、至聖所と続きます。だんだんとは入れる人が少なくなります。

41:この献金箱の数は何と13個ありました。使い道が決まっている指定献金箱です。私たちの教会でも、お見舞い指定献金、コイノニヤ献金、会堂修繕献金、牧師指定献金それぞれ皆さんが指定されたとおりに献金を使う事になっています。この指定献金箱が婦人の庭に13個あったというから驚きですね。どのような形かというと、四角い箱の上に入口がラッパのような形をしたものが2つついていました。大きな口が空いた部分から人々が献金を投げ入れます。この日は過ぎ越しの祭りでしたので、世界中から人々が集まりで多くの人でごった返していました。イエス様はここで人々の献金を捧げる様子をしっかり観察していたのです。金持ちは沢山投げ入れていたと有りますので、その度に大きな音がしました。他の人にわかるように投げ入れていた事でありましょう。

42:そこへ一人の貧しい女やもめが来て同じように献金を投げ入れていました。レプタ銅貨を2つ投げ入れました。ユダヤで最も少ない金額の通貨で銅貨です。これは1コドラント。1コドラントとは1デナリの64分の1です。皆さんご存知のように1デナリは当時の労働者1日分の賃金ですので日本円にして仮に1日1万円とすると64分の1は156円です。日清のカップラーメン1個は確実に買える値段です。そうすると1食分ということになりますか。これくらいの献金をこの貧しいやもめはしたというのです。少ない捧げものですがイエス様は良く観察していました。

43:続いてイエスは弟子たちを呼び寄せて言います。まことにあなた方に告げます。ここ注目。まことにという言葉をイエスが使う場合は非常に大切な時に言っていますね。アーメン。これからいう事を心して聞いてねという事です。イエスの見解は、人々が景気よくたくさんの献金を投げ入れていましたが、どの人よりも沢山投げ入れたとこの婦人の信仰の行為を高く評価しています。

44:続けて理由を語ります。皆は有り余る中から投げ入れた、捧げたのに、この女は乏しい中からあるだけ全部、生活費の全部を投げ入れたのですと理由をのべました。人間の評価はどのくらいの額を捧げたかでその人の価値が決まります。イエスの評価は違います。どれくらいの犠牲を捧げたかで決まるのです。このやもめは生活費全部投げ入れたのでイエスは驚いたのです。このように人の目と神の目では見方に違いがある事が良くわかります。
※少し道はそれますがやもめのことを心配していませんか。
このような記事を読むと真っ先に心配するのが、この婦人はちゃんと夕食は食べたのだろうか。将来のたくわえはどうなのだろうかという事ですね。特に日本人は老後の心配をする民族ですね。しかし、心配には及びません。当時のユダヤの会堂、ユダヤの共同体ではやもめに対する援助体制がしっかり成されていて食事もしっかりできたのです。食べるには困らなかったのです。そして素晴らしいことにこの隣人愛の精神は初代キリスト教会にも受け継がれていました。使徒6:1~4。貧しい人に対して毎日配給がなされていました。これはキリスト者であるなしに関係なく行われていたのです。
ここは私達クリスチャン、キリスト教会にとって大きなテーマです。今日のキリスト教会はこれをしてきたかというとほとんど実行していませんでした。隣人愛は講壇で語られますが、実践が成されていませんでした。私たちは先輩たちからこのような分野の話はほとんど教えられてきませんでした。でも今私達キリスト教会が真剣に取り組むべき分野である事をもう一度確認していこうではありませんか。ずっと初代教会はしていたのです。そして今も一部の教会は隣人愛の行動を実行しています。見習いたいですね。様々な分野での愛を実行させていただきたいと常に願っています。
適用
①献金とは
元々私たちは自分の物は持っていません。何も持たないで生まれ、何も持たないで死んでいくのです。1千万円の持参金をもってイエス様宜しくお願いしますということは出来ないのです。私たちの能力、賜物、全て神から受けたものであります。別の言い方では言うと預かっているだけです。
献金も同じです。神から受けたもの、預かったものを神にお返しするというのが献金の基本的な考え方です。自分を捧げる行為を献金と言いますが、その表れが献金であります。
新約聖書は10分の1献金を教えてはいません。ここは思い違いをしないでください。神の恵みに感謝して喜んで捧げるのが献金です。それぞれの信仰に応じて捧げるものです。ある人は信仰によって収入の10分の1。10分の1以下の場合もあります。10分の1を超える場合もあります。
○聖書は今持っているものを全部捧げなさいとは教えていませんのでご安心下さい。婦人自発的。
○誤解しないでください。婦人が少ない金額でも神に喜ばれたのだから、自分も少なくても良いのだと思い違いの解釈をする人がいますがそういう事ではありません。
②献金する姿勢
献金額は人それぞれ違いますが、人に見せるものではありません。しかし、神はこの婦人の様に犠牲を伴う捧げものを喜ばれます。これを捧げると少し痛いなと思うような献金はとてもイエスに喜ばれると思います。皆さんいかがでしょうか。ここにいる兄弟姉妹達も毎月それぞれの信仰に応じて喜んで捧げていると思います。知恵を使って上手に生活し喜んで主にお返ししましょう。
③献金しても貧乏になりません。
主は私達を豊かに導き、それぞれ1軒1軒の家計に至るまでご存じのお方ですから必ず必要は満たしてくれます。少し痛いなというような献金の心を大切にしましょう。そうすれば皆さんは貧乏になることなく潤され本庄教会ばかりではなく、周りをも潤し支える教会に成長していけるのです。
結び
女やもめには主は必要な物は、必要な時に、必要な分だけ備えてくださるという信仰がありました。私達キリスト者が見習うべき神への信仰からくる全的献身の姿があります。私たちも神を愛し、神に喜ばれる信仰者として初代教会の様に歩ませていただこうではありませんか。