マルコの福音書(58)

2022年12月13日

2018年1月7日
聖書箇所:マルコ12:18~27
宣教題:死後の世界はあるか 

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。昨年は大みそかが日曜日で、次の日が元旦礼拝となり、日、月と2回続けて礼拝を捧げた方もいて、2倍の祝福を頂いたことと思います。また私の関係者でも新年早々葬儀が続きました。31日に今村さんの順子さんの御主人が亡くなられ、明後日葬儀とのことです。また私が世話になった方の奥様も亡くなられて先週木曜日に葬儀がありました。そんなことで休みもなく今日の日を迎えた感じです。皆さんは如何でした。

さて、今日はマルコの福音書に戻ります。12章18節~27節です。流れを確認してまいりましょう。棕櫚の日曜日エルサレムに入城したイエスはこの週の金曜日朝9時に十字架に掛かって贖いの死を成し遂げるのですが、この聖書箇所は何曜日だと思いますか?そうです。まだ火曜日です。火曜日が続いているのです。長いですね。イエスが憎くてたまらない人たちはあの手この手を使ってイエスを陥れよう近づき策を弄します。最初に来た人たちが祭司長とパリサイ人ですね。権威をテーマにしてきました。次はパリサイ人とヘロデ党、税金の事から政治的なことでした。3番目にサドカイ人たちが神学的な挑戦をしてきました。今日の話はこの3番目に来たサドカイ人との対話になります。ここから何を学び取る事が出来るのでしょうか。話は3区分になります。

聖書の場面は過ぎ越しの祭りが近づいています。この時には捧げられる羊に傷がないかどうか調べます。祭司たちは犠牲の羊たちをチェックしているのです。そして今イエスがパリサイ人やヘロデ党、サドカイ人達から質問攻めにあっているのは羊の本体であるイエスがチェックされているのです。この箇所の底辺にはこの様な流れがある事を踏まえていくと理解が進みます。
○18:サドカイ人とは
福音書の中に良く登場する人たちですが、彼らは当時サンヘドリンと呼ばれるユダヤ議会の議員でした。議員70人の多数を占める指導者階級の人達でした。彼らは祭司職にありましたので神殿経営に携わり、多額の収入を得ていた金持ちグループです。但し民衆から嫌われていました。
サドカイ派はパリサイ派と共にローマの支配は受ける中でユダヤを治めていたのですが特徴は何か。パリサイ人たちが広めた口伝律法は認めず、モーセ五書しか認めませんでした。それと復活は信じていません。この世が全て、死んだら終わり。死んだら神の裁きもなければ報いもない。死後の命もなければ、霊魂の存在も信じない。パリサイ派とは正反対の考え方を持つ人々でした。死後の世界や天使や悪霊の世界も否定する。また神は日常生活に介入しない言う立場の徹底した合理主義者です。
因みにサドカイ派は紀元70年にエルサレム神殿がローマに完全に破壊されたことによりサドカイ派も滅亡しました。パリサイ派は口伝律法ですから民衆の中に残り、今もユダヤ人社会の中で影響力を持っています。
○18~23:質問の内容
死人の復活はないと主張する彼らは得意になってイエスを陥れようとイエスのもとにやってきました。19節の質問を読む。これはモーセ五書の中の申命記25:5に書いてある教えです。兄弟が一緒に住んでいてある兄に子どもがなく死んだ場合、夫の兄弟はその妻と結婚して、夫の兄弟の義務を果たさなければならないというものです。本来これは立場の弱い妻を守る愛の制度です。当時女やもめが生きていくのは今より数倍大変な社会でした。非常に愛に満ちた配慮です。
ところがサドカイ派はこの精神を踏みにじり、自分の都合の良い様に解釈したのです。そしてなんと、あり得ない質問をして、イエスを陥れようとしてきたのです。愚かにも程があるという感じですね。実は私たちも文脈・コンテキストを無視して聖書のみ言葉を読み込むときが多くあります。注意が必要です。でもイエスは申命記の真の意味を教えたのです。質問の内容は
20~23:7人の兄弟の話。全部夫が死ぬ。あり得ない話を得意になってイエスに挑むサドカイ派。実はこれでパリサイ派をコテンパにやっつけているので、ここは彼らが自信をもって恥ずかしげも無くイエスに挑んでいる格好です。7人とも子を残さなかったのですが、23節、ポイント、復活の際、彼らがよみがえりの時その女は誰の妻でしょうか。これでどうだ、イエスよ。答えられまいという感じの場面ですね。
○24~27:イエスの答え
・思い違いをしている。彼らの質問を跳ね飛ばしています。
・聖書も神の力も知らない。〃
・復活の栄光の体を持つとは地上の延長線にあるのではない。復活の体は全く新しく永遠に続くのである。復活の永遠の体を持つので結婚する必要がない。それ故死人が甦る時はめとる事も、とつぐこともない。
26:死人が甦る時について、モーセの柴の箇所で、神がモーセに語り掛けた事を読んだことがないのですか。こういえばユダヤ人は直ぐに何のことかが分かる。出エジプト3:6「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」モーセは神を仰ぎ見て恐れ、顔を隠した。・・・であった。過去形ではなく、・・・の神である。現在形で語られている。これはどういう意味か。アブラハム、イサク、ヤコブはイエスの時代から2千年前に主のもとに召された人であったが今イエスのこの時代にも生きていると宣言しているのです。アブラハムたちは復活の命に預かっているのです。イエスは彼らが信じていたモーセ五書の出エジプト記から語りました。

27:神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。即ち死後の世界がある事をここでしっかり宣言しているのです。こうしてサドカイ人たちの考えが全く聖書と違っている事を彼らが引用した申命記の箇所を出エジプト記から教えて論破したのです。彼らが信じていたモーセ五書を通して復活の命があること、死後の命があることを示したのです。
○適用
死後の世界はあるか。
・信者の復活を第一の復活と言います。:イエスの復活それは:初穂、初穂の後はどうなるか。それに続くものがあるから初穂と言います。そうです。私たちが次に続くためにイエスは復活されたのです。信者がそのあとに続くいのちの保証がイエスの復活であります。私たちが復活の命を受けるのは、福音の三要素を信じるだけで良いのです。即ちイエスは私たちの罪の為に十字架上で死なれた、葬られ、三日目によみがえられた事を信じたら今ここで復活の命に預かります。実にイエスの復活は信じる者を第一の復活に預からせるためです。
・未信者にも死後復活があります:サドカイ人が考えていたように人は死んだら何もかもすべてないと聖書は言っておりません。黙示録20:11~15すべての人は死んだら裁き主イエス様がいる白き大きな御座の前に出ます。いのちの書が開かれ死んだ人々はこれらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じ裁かれ、火の池に投げ込まれる、これを第二の死と言います。
○結び
貴方は自分の人生をどう生きるか。死後の世界があるというイエスの言葉に立って、今日という日を、またこの1年を歩ませていただこうではありませんか。