マルコの福音書(55)

2022年12月13日

2017年11月19日
聖書箇所:マルコ11:27~33
宣教題:指導者たちの挑戦 

今日の聖書箇所はイエスの最後の1週間、特に火曜日、即ち十字架刑の3日前の出来事になります。イエスは大きな緊張感の中にあります。一方弟子達にはまだそれほど緊迫感はありませんでした。それはこの後イエス様に何が起こるのか全く予想していなかったからであります。そのような中、別の意味で緊張感をもっている人々がいました。それは自分たちの未来が危なくなると考えていた人達でした。誰だと思われますか。そうです。祭司長や律法学者達です。彼らはイエスがいた神殿に乗り込んできたのです。ここから今日の話が始まります。
○今までの流れを理解する 27節までの事
まず今、イエス様はユダヤ最大の祭り「過ぎ越しの祭り」の時を過ごしているという事。棕櫚の日曜日、エルサレムに勝利の入城となりました。そして夕方ベタニヤに帰り翌日の月曜日につぼみの無いイチジクの木を見つけ、呪ったという出来事がありました。続いて神殿の宮清めを行いました。火曜日の朝にイチジクの木が枯れていたのを弟子達が発見します。この枯れた意味は外見ばかり繁栄している様に見せかけていたエルサレムの人々の姿を枯れたイチジクの木を通して示されたのです。そして続けてイエス様は弟子達に祈りについて教えました。この後、イエスは火曜日に再びエルサレム神殿に行かれましたが、そこにユダヤの指導者たちがイエスを貶める質問を通して死刑にする為にイエスを訪ねてきたというところです。場所はエルサレム神殿、ここに群衆、イエスと12弟子、民の指導者たちが大勢いる。これが場面設定です。この光景を思浮かべながら聖書を読みましょう。
あと一つこの箇所を理解するうえで大切な背景があります。イエスのエルサレム入城は世界中から人々が集まる過ぎ越しの祭りの日、紀元30年4月2日と言われています。過ぎ越しの祭りには何かが捧げられます。そうです。全焼の生け贄を捧げる事です。意味は自分の罪の身代わりに捧げるのです。特に有名なのは傷の無い1歳の雄の羊が捧げられます。実は捧げものとしての羊は棕櫚の日曜日から木曜日まで祭司たちが羊に傷がないかどうかを吟味しているのです。実に祭りの期間捧げられる子羊はイエスの雛型であり、本体はイエス様です。これを抑えておくと今日の聖書箇所の理解が深まります。イエスもこの日祭司たちに吟味されている側面があるという事です。

27:エルサレム神殿にいるイエスのところに指導者達がきた。指導者:祭司長、神殿経営で沢山の財産がある人、金持ち、サドカイ派とよばれるグループに属していました。彼らは祭司であり政治家でもありましたから当時ユダヤを支配していたローマ帝国の顔色をうかがう人々です。
律法学者、長老。パリサイ派とよばれるグループに属する人々。政治的には力はないがサドカイ派よりは民衆に人気があったと言われています。
彼らがイエスのところに来た目的は話を聞くためではなく、群衆を扇動するため。またイエスがローマの法律違反をしていると示すため。最終的にはイエスを十字架刑に追い込むためです。但し過ぎ越しの祭りが終わってからの話です。

28:話の流れ、質問のポイント 2つ「何の権威によって」「これらのことをしているのか」
「何の権威によって」:自分達は真理を守る者という自覚があったので、権威ある人が現れた時には、本物かどうかを確認するために挑戦状をたたきつけたのです。「お前は自由に話しているが誰があなたに権威を授けたのか」という感じです。自分達はユダヤ教教師であるラビたちから正式に学問を受けて今の社会的な立場になった。お前はラビから正式教育を受けていないだろう。こうしておとしめるのです。これに対してイエスが天から言えば神への冒涜罪に陥れる事が出来る。また逆に人からと言えばさらに問い詰めて陥れる。これが彼らの罠でした。
次に「これらのことをしているのか」とは①エルサレム入城②人々の称賛を受けた③宮清め④盲人や足の萎えた人たちを癒した⑤神殿で教えた。これはメシヤの業である。一体だれの承認のもとにこれらのことをしているのかと言って脅しているのです。

29~30:イエスの答え。これに対してイエスはまともに答えていません。質問に対して質問で答える方法を取っています。相手が答えを持っている場合は特に有効です。私もこの手法は良く使います。ヨハネのバプテスマと言う言い方はバプテスマのヨハネの奉仕全体を表す言葉使いです。彼は何の権威によって奉仕をしたのかと権威を取り出しています。天からか、人からかどちらからですか。同じ手法で返しています。これで主導権は完全にイエスになりました。
31~33:すると彼らの間で話し合いが始まります。イエスも群衆もみんな聞いています。彼らはバプテスマのヨハネが神から遣わされた預言者であることを認めていました。天からと言えば、其れならなぜヨハネを預言者と認めて信じなかったのか。人からと言えば群衆が恐ろしくていえないし。群衆はバプテスマのヨハネを神から遣わされた預言者であると信じていたので騒ぎ出します。政治家はいつの時代でも世論が恐ろしいのです。だから最後に第3の道である分かりませんと言うのです。イエス様も何の権威によってかは言いませんでした。こうして指導者たちの挑戦はもろくも崩れてしまったのです。見ていた群衆は気持ちがスカッとした事でしょう。次に12:1~12で一つの話が締めくくりとなります。来週やりますので楽しみにしてください。
適用
○キリスト教会の権威について
キリスト教会に於いてすべての信者は祭司であり、神と直接つながり、教えられる存在であると教えています。非常に大事な聖書の真理です。ですから牧師も含めてすべての信徒が祭司です。神の前には同じ立場です。しかしこの群れを導いていく指導者が必要です。それが神から群れを牧会する召命を受け、立てられている人がキリスト教会の牧会者、長老、牧師です。本来は複数いるのが望ましい形です。神は牧師が群れを牧会するために権威や力を与えています。それは牧師が謙遜であり神に誠実に仕え、又忠実であるという前提条件が付いています。それ故この権威を使って信徒の前で威張る事や、権威を振りかざす必要はありません。主イエスに共に仕えていく為にのみ与えられた権威です。これを牧師も信徒もしっかり覚えて主に仕えていく事が必要です。でないと信徒が牧師を軽んじ、牧師は権威を自分に集めてカルト教会的になる危険性があります。
○信仰の成長について
民の指導者たちは、バプテスマのヨハネが神から遣わされた預言者であることを知っていたのです。しかし行動に移さなかったので全く成長していませんでした。私たちはどうでしょうか。信じて唯救いを受けて天国を待つだけの信者でしょうか。そうではないはずです。みことばを教えられたら、それを自分の生活に適用して実行する必要があります。そして受けた賜物を用いてこの地域で仕えて生きるのです。この様に生きると少しずつ信仰が成長し、イエス様に性格や生き方が似てくるのです。是非今日より明日、今月より来月、今年より来年と信仰が成長する事を願います。
結び
指導者たちはこの世の権威を振りかざしていきました。私たちはどうすべきか。ただ聖書のみことば、神のことばの権威に基いて生きる者でありたいと願ってやみません。そうすればこの世の中がどのようになろうとも恐れる事無く自分の人生を全うできるのです。