マルコの福音書(39)

2022年12月13日

2017年7月2日
聖書箇所:マルコ8:10~26
宣教題:まだ悟らないのですか  

7月となりましたがいかがお過ごしでしょうか。今年はツバメが3羽巣立ちました。先週の金曜日に2回目の産卵をして温めています。元気なひなが誕生し、秋には無事にフィリピンまで変える事が出来ればと願っています。
それではマルコの福音書8章から学んでいきましょう。今迄イエス様たちはデカポリス地方で御業を行いました。ここは異邦人の地と言われています。ここで舌が回らず、耳が聞こえない人を癒し、7つのパンを通して4千人以上の人に食事をふるまいました。そして今日の聖書箇所では再びユダヤ人の住むガリラヤ地方に移動しています。地図を見てください。①ガリラヤ湖の東側から西側の土地ダルマヌタ地方(マグダラのマリヤの出身地マグダラ)の町に到着しています。そこでイエスをつけ狙っているパリサイ人が難癖をつけに来ましたので、すぐにガリラヤ湖北側のベツサイダ・ユリアスという町に舟で移動します。②舟の中で移動中の話になります。それでは進めてまいりましょう。①10~13マグダラ②14~21ベツサイダに向かう舟の中で

①マグダラでの出来事10~13
10~11:イエス様はこの頃、身の危険を感じていました。それはパリサイ人たちがイエスはメシヤと言っているが、偽物であると断罪して隙あれば命を奪おうと狙っていたのです。そして議論を仕掛けてきたのです。パリサイ人たちはイエスが一つでも間違った答えをしたらつるし上げようと思っていたのです。ですからこの場面は非常に緊迫した雰囲気なので、そのような気持ちで読みましょう。彼らは議論を仕掛け、イエスに天からのしるしを求めたのです。この天からのしるしとは癒し以上のイエスの御業で人々が仰天するような劇的なしるしを求めたという事です。

12:イエスは攻撃を仕掛けてくるパリサイ人に対して心の中で嘆息して、これは深くため息をつくという事です。はあー。パリサイ人たちはどうしてこうも主のみ心から離れてしまったのだろうか。最初はあれほど、御言葉を理解し信仰熱心だったのに何故、形式的、うわべだけの信仰なのか。今は人を見れば上から目線で見て裁いてばかり、全く聖書の本質を理解しない人々だ。と嘆いて嘆息するのです。
続けてイエスはパリサイ人に向かって「何故、あなたがたは癒し以上の仰天するような劇的なしるしを求めるのか。今まで私が行ってきた御業で十分でしょう。これだけで私がメシヤであることを十分に理解できるでしょう。今までなされてきた神の恵みの御業を無駄にしないでね。あなた方の信仰はどこにあるのですか。今の時代にはこれ以上のしるしは与えられません。
13:これだけ言ったらイエス様はさっさとガリラヤ湖の北東にある異邦人のベツサイダ・ユリアスに向かう為、弟子たちと共に舟に乗り込んでしまいました。

②14~21ベツサイダに向かう舟の中の会話から
14:慌てた弟子達は肝心の食糧を忘れてしまいました。パンが一つしかなかったのです。
15:イエスはパリサイ人のパン種とヘロデのパン種には気を付けよと弟子たちに命じました。パン種とは普通パンに入れるイースト菌の事ですが、膨らまして大きくするものです。大切なものです。しかし聖書特に福音書の中ではパン種は良いものとしては紹介されません。悪影響をもたらす悪いもの(罪の象徴)です。ですからここでイエスはパリサイ人の偽りの悪い教えを指してパリサイ人のパン種と言っているのです。特に彼らはイエスの御業は悪霊の頭ベルゼベルによって行われていると言ってイエスに敵対したのです。またヘロデのパン種とはローマという権力にこびて民衆を圧迫している間違った政治力であります。
今風に言いますと間違った聖書理解、偽りの教理であります。最たるものは律法主義と呼ばれる教えです。文脈、コンテキストを無視して聖書を解釈し教えるやり方です。聖書を表面的に解釈して本質を読み取ろうとしない聖書解釈です。ここから様々な間違いが出てきます。
16:弟子たちはパンと言えば食べるパンしか頭にありませんでした。再び議論する弟子達の姿が見える様であります。
17~20:イエスは弟子たちの話を聞いて、何故パンが無いと議論するのですか。私が話したパンは彼らの間違った教えの事だ。パンは一つあれば十分でしょう。あなた方は目と耳があるのでしょう。少し前の事を思い出してください。五千人のパンの給食でパン切れはいくかごですか。彼らは7つですと答えます。4千人の時はいくつのかごでしたか。彼らは12ですと答えます。まだ悟らないのですか。こうしてだんだんと弟子達の信仰の目が開かれるようになります。因みに22節~ベツサイダでの出来事に続きます。ここは省略します。

適用
○現日本の教会に対するイエスの嘆息
イエス様が私達日本の教会を見て議論ばかりで、裁き合ってばかりの死んでいる信仰者が多いので深くため息をついているのです。(ああ何故、私の心を第一として生きてくれないのか、己の思いを優先するのか、何故御言葉の学びを大切にしないのか、みことばに生きようとしないのかと、ため息をついているのです。)私も日本のキリスト教会の一員として主の前にみことばを実行するものとして歩んでいきたいと願っています。

○信仰の目をもって世界、時代を見よう
中々弟子たちの信仰の目や耳は開かれませんでした。しかし徐々に彼らの目は開かれます。そしてペンテコステ以降聖霊を受け目が開かれました。私達もみことばをバランスよく学び霊の目が開かれて今の時代にあって聖書の視点から発言できる人にされていこうではありませんか。

○信仰的、人間的に成長させていただこう
弟子達はイエスと共に歩み、弟子訓練を通して荒削りながらも成長していきます。多くの失敗を繰り返しながらも成長していきます。そしてイエスこそキリストであると告白し信仰者として成長していきます。最終的には聖霊を受けて強くされイエスに生涯をかけて人生を全うしました。私達も弟子たちの様にイエス様を見上げて聖霊の力に励まされて成長させていただきましょう。

結び
21:イエス様は弟子たちに語りました。まだ悟らないのか。この言葉は私達にも語り掛けているのです。まだ悟らないのですか。イエスは語り掛けます。あなたは信仰持って10年ですか。それとも40年、50年ですか。私のもとに来るなら恵みは尽きないから信仰をもって飛び込んできなさいとあなたや私に語り掛けています。是非もう一度イエスの言葉に応答して、まだ悟らないのかと言われるのではなく、イエスこそ尽きない恵みを持っている方として今日もう一度ふところに信仰をもって飛び込んでいこうではありませんか。