マルコの福音書(31)

2022年12月13日

2017年5月7日
聖書箇所:マルコ6:7~13
宣教題:主イエスから任命を受けて  

前回はマルコの福音書6章1節~6節を通してイエス様が自分の故郷ナザレを訪問した所から学びました。ナザレでイエス様は人々から歓迎されることなく冷たくされました。それは彼らがイエス様の表面的なところを見て評価や判断を下したからです。それ故イエスは彼らの不信仰な態度を見て驚くと共に力あるわざを行う事が出来ませんでした。この時既にイエスの宣教は不特定多数の人に対してご自身が神の子である事を、奇跡を通して示す事より、信仰をもって求める人に力あるわざを表すように変わります。イエスのこれらの態度は弟子訓練につながるものでありました。

さて、今日は6節からです。イエス様の北部ガリラヤ地方の伝道が続きます。弟子たちに天の御国の福音を伝えるように命じます。福音と言っても今私たちが伝えるイエスキ・リストの福音とは違います。天の御国の福音はユダヤ人に対して遣わされているのであり、やがて来るメシヤ王国の福音を伝える為に弟子たちに命じたのです。この視点を抑えて読むと理解が深まります。

7:イエス様は12弟子を二人一組にして伝道に派遣します。二人で伝道するというのは良いことです。互いに補い合って力を倍増する事が出来ます。それぞれの得意分野も生かすことができます。マタイ10章には誰と誰が組んだかが記されているので参考になります。またイエス様は派遣にあたり12弟子に特別の権威を与えています。弟子とは師匠から学びすべての面で従う存在です。しかしここでは権威を与えたと有りますから、使徒とされたという事です。使徒とは派遣する者の代理者としての力を受けた(大使・アンバサダー)という事です。悪霊を追い出し、病をいやし、あらゆる種類の弱さを回復させる力を12弟子に与えました。これはすごい力を受ける事です。

8~11 宣教の旅に出る弟子たちに対してイエスの命令
・旅の必需品に対することば 杖1本、パン、袋、胴巻き、靴は履きなさい、下着は1枚にせよ
・迎え入れる家に入ったらそこに留まりなさい
・受け入れない家に対しては、足の裏のちりを払い落とす。これは彼らの習慣から来ているもので 当時のユダヤ人は異邦人の土地からユダヤ人の土地に入る時に足と衣服についた塵を払い落とす習慣がありました。彼らは異邦人の土地を汚れていると考えていました。弟子たちを拒んで彼らが語る福音に耳を貸さない人々も異邦人と同じであり、また土地も汚れていると考えていたのです。これに関連して足の裏のちりを払い落とすことによって弟子たちは伝道の責任を果たしたとして足の裏のちりを払い落としたのです。

12~13 具体的な12使徒の働き
弟子達はイエスから授かった使徒としての権威と力を受けて、人々に悔い改めを説きました。悔い改めとは自分の罪を認めて生き方を方向転換する事、そして神に心を向けさせる行為です。
また同じ権威と力によって悪霊に付かれている人から悪霊を追い出し、大勢の病人に油を塗って癒しました。油を塗るのは当時なされていた医療行為のことで、主にオリーブ油を用います。

適用(原則)
今日の弟子派遣の話はそのまま全部を私たちに適用することは出来ませんが、キリストの弟子としての生き方、派遣されているという原則は適用できますのでその視点で学んでまいりましょう。
1、私たちは全世界に向かって福音を伝える様イエスから任命されている
私たちはキリストの使徒ではありません。使徒とはキリストと共に生きた者、又復活を見た者の中から特別にイエス様から権威と力を受けて代理者として派遣された人の事を使徒と言います。
12使徒、パウロ、バルナバ、主の兄弟ヤコブだけが使徒です。今日使徒はいません。
それでは私たちの立場は何か、全員がキリストの弟子です。小さいお友達から高齢者に至るまですべてキリストの弟子に任命されているのです。キリストの弟子とは主であるキリストの言葉に従い、服従する者です。この自覚をもって毎朝キリストの御心を尋ね求め、キリストの御声を聴いて自分が置かれている町でキリストの心を心として生かされようではありませんか。ではキリストの弟子であるという根拠は何か。万人祭司(Ⅰペテロ2:5)という言葉を聞いた事があると思います。すべてのキリスト信者はキリストから祭司として任命されているので、神に仕え、人の為にとりなす者です。自分の周りに住む人を愛し日本人を愛し仕えて生きるのです。

2、必要なものは備えられる
キリストの弟子として生きるならば不必要なものは備えられないが、神は必要な物は必要な分だけ備えられるので安心して主に仕えていこう。必要を求めて大胆に祈ろうではありませんか。

3、時代を見て生きる
キリストの弟子として派遣されている者は自分の国が今どのような時代かを見ていく必要があります。今から50年前の日本、あの東京オリンピックの時代、NHK朝ドラ「ひよっこ」の時代はTRラジオやカラーテレビを作り戦後の平和の中で日本経済が栄えた活力ある時代でした。
今の日本は50年前と違います。世界一早いペースで進む超高齢社会。人口減少時代、格差がますます広まる時代、子供の貧困は増える時代。急速に貧しい人と豊かな人に分けられる時代です

政治は一党支配に近い状態が続き、自分と考えが違う人を力で押さ込む時代です。日本人は江戸時代から「おかみ」に逆らうなという教育を受けてきたので政府に従順する体制派が多い時代です。自分の考えをきっちり述べる人はまだまだ少数派です。
また安保関連法案が成立し、戦争が出来る国になりました。共謀罪が成立すると自由にものが言えなくなる監視社会になります。カジノ法が成立し国が強力にギャンブルを進めギャンブル依存症の人を増やしている時代です。パチンコ、競輪、競馬、オートレースだけでもギャンブルは多いのにこれ以上認めたら日本はギャンブル依存症の人が増える一方になり、国は衰えてしまいます。

一方信仰の世界では江戸時代から続く寺受け制度により、キリスト教は邪教であるとしておかみの権威によって否定されました。この考えは今も続いています。このような時代に日本のキリスト者は生きているのです。この時代を良く見極めて何がイエス様の御心かを確かめて生きよう。

結び
私達はキリストの弟子として持ち場や賜物は違いますが、それぞれがイエス様から使命を受けて任命されてこの埼玉県北部の本庄・児玉郡市に派遣されています。自分はキリストの弟子だという自覚を常に持ち、この時代性を見極めて、キリストとしてどう生きるべきかをいつも考えて聖書のみ言葉の原則に立つ生き方を貫いてまいりましょう。また必要な物は必要な分だけ備えられるので大胆に主に祈り求めて生かされていこうではありませんか。