マルコの福音書(15)

2022年12月13日

2016年10月16日
聖書箇所:マルコ3:7~12
宣教題:「傷んだ葦を折らない方」

今日はマルコ福音書15回目の学びになります。イエスはパリサイ人の安息日をめぐる聖書理解の違いによりパリサイ人達から執拗に命を狙われるようになります。何故か、彼らの考えるメシヤは自分たちと同じ考え方でモーセの律法を忠実に守る方であるに違いないと思い込んでいました。聖書の言わんとする事から遠く離れた聖書理解でした。そして本物のメシヤはやがて武力によりローマに立ち向かい自分たちを解放してくれると考えていたのです。それがこの時代の、この人々の普通の考え方でもあります。それゆえパリサイ人の考え方と全く違う考え方のイエスが邪魔になり殺意を持つようになったのです。
因みに12弟子さえもキリストの十字架の死と復活、ペンテコステ、教会誕生までは民衆と同じように考えていたのです。イエス様はメシヤでだから武力をもってローマから解放してくれると真剣に思っていたのです。彼らの頭の中にはメシヤの十字架の死はあり得ないことでした。前回の3:6までの話になります。今日はこの続きになります。関連聖書箇所はマタイ12:15~21です。①退かれたイエス7、②人々を癒されるイエス7後半~10、③悪霊の告白11、④イエスの戒め12

①退かれたイエス7
イエスは湖の方に退かれた。この湖とはガリラヤ湖です。ここで一歩退き静かな時間を過ごします。何故ならイエス様はパリサイ人たちの殺意を感じ取ったのでありましょう。故に人の少ない安心・安全なガリラヤ湖畔に移動しました。またこの時はまだ十字架の死の時は来ていないし、イエス様には奉仕すべきことは他にも沢山残っていたと思われます。こうしてイエスは身の安全も含め一旦退き、祈り、休息、弟子たちとの時間を大切にされたのです。

②人々を癒されるイエス7後半~10
 ところが民衆はイエス様を放っておきませんでした。それが7節~8節の言葉です。ここを読むとイスラエル全国から人々が集まってきた事が分かります。しかもイドマヤ、ツロ、シドンとありますのでイスラエル人だけでなく、異邦人を続々と集まった事になります。癒しや奇跡は800年前のエリヤやエリシャだけでしたので人々はエリヤの再来かと思い期待して集まったのです。

※今でいうと仮に本庄市を中心にするならば関東各地から日本人、外国人に関係なく数十万人の人が押し寄せてきた感じです。目的は何か。愛と恵みに満ちたイエス様の話を聞くため、また癒してもらうために人々は押し寄せてきたのです。交通手段は何でしょうか。歩きです。ある人は数日かけて歩いて来たと思います。イエスの周りには人々が周りに群がってきましたが一人一人を優しく受け止め話を聞き、そして一人ひとりに手を置いて、あるいは言葉を交わして病をいやされたのです。人々の病はたちどころにして直ってしまうのです。病に苦しみ疲れ果てている人が沢山いたのです。当然多くの病気の子供や、貧しい子どもたちも多くいた事でしょう。その子どもたちにも優しく接したのがイエス様でした。
※もしこの場所に私がいたならば、私の気管支喘息もアレルギーも、高血圧も、慢性副鼻控炎も、疲れも、不眠症もたちどころに癒されたと確信しています。
9節に面白いことがかかれています。余りに大勢の人なのでイエス様はある事をしました。それは小舟を用意させ船に乗り安全を確保したうえで船の上から人々に話をしたのです。人々はイエス様の動く方向にぞろぞろとついていく感じです。イメージつかめましたか。

③悪霊の告白11
汚れた霊どもとは、悪霊の事です。悪魔は一人でその子分で沢山いました。イエスを見ると、と書いてありますが、このような意味になります。悪霊が人について、悪霊がその人を通して話しかけさせているのです。「あなたこそ神の子です」悪霊どももイエスを神の子と認めています。但し悪霊どもはもともと嘘つきでイエスに従う事はない存在だと知るべきです。

④イエスの戒め12
未だイエスの十字架の時は来ていませんので癒された人たちに自分のことは黙っている様にイエスは伝えます。民衆のメシヤ像とイエスご自身がこれから受けようとする苦しみの十字架の御業とはあまりにも違うのでまだ自分の事は黙っている様に人々に伝えます。
適用
○イエスの姿勢 
イエス様は心優しい方として神に仕える本物のメシヤです。あなたが痛み苦しんでいるときに、ザマア見ろとは言いません。ご自分の力を求める人を癒すお方です。私達も自分のところに来る人に対して癒しを与える事ができるようなキリスト者になりたいと願います。
○一歩退く必要性
わたしたちは生身の人間です。時には厳しい状況に追い込まれることもあります。その時一歩退き静まり、イエス様との交わりを通して主が心に語り掛ける御声を聴き、主のみ心を模索する必要があります。イエス様も一旦退きました。イエスの生き方から学びましょう。

結論の前に暗唱聖句を致しましょう 結論 マタイ12:18~21をお開きください。
今日の御業を見てマタイは別の視点で書いています。それはイエスこそ預言者イザヤが預言したメシヤであるという事です。イエスは神の僕であり、聖霊に満たされたお方、私たちのような異邦人にも真理の全貌を伝えるお方であります。そして争うことなく、大声を出して怒鳴りつける高慢な人ではなく、傷んだ葦を折る事もなく、傷んだ葦とは植物の葦の茎が今にも折れようとしている姿です。この意味は人が霊肉共に傷つき疲れ果てている時に追い打ちをかける事はなく優しく癒してくださるという事です。くすぶる燈心とは、昔電気がない時代に油をもって火をつけて明かりにしますが、その時に芯の部分がなくなると煙が出てくすぶります。明かりがつかなくなるのです。これは命が消えかけていく姿を例えています。イエス様はあなたの痛んだ心を折ることなく、またくすぶっているあなたの人生の心に火をつけ、たくましく命を燃やしてくれるお方なのです。このイエスに信頼し、イエス様に聞いて歩んでいくキリスト者にさせられてまいりましょう。お祈りいたしましょう。