マルコの福音書(13)

2022年12月13日

2016年10月2日
聖書箇所:マルコ2:23~28
宣教題:「安息日とは何か」

マルコ福音書13回目の学びになります。いよいよイエスとパリサイ人の安息日論争となります。パリサイ人たちはいつもイエス様に言いがかりをつけ後を追いかけます。特に今後は安息日のあり方についてイエスを責め立てます。何故こんなにイエスの行くところ行くところに後をつけてくるのでしょうか。それを理解する手掛かりは次のことです。
前にも述べたように当時ユダヤ社会はメシヤ(救い主)を待ち望む思いが大きくなりました。そしてメシヤは武力でローマの圧政から自分たちを救い出してくれるものだと思い込んでいました。これがイエスに対してよく聞く言葉である「ダビデの子」と言う呼びかけです。彼らにとってメシヤは自分たちの仲間でありモーセの律法を厳格に守る人に違いないと思っていました。すごい人物が現れたぞ、もしかしてという度に、本物かどうかを確かめているのです。彼らがメシヤを見分けるのが三段階の手法でした。
一段階 沈黙・観察 話してはならないのです。(マルコ2:6心の中で理屈を言う)
二段階 質問・審問攻勢 直接質問。2:16最初は遠慮して弟子に。2:18イエスご自身に
三段階 最終的な審判・評価の段階。3:22ベルゼベルに取りつかれているからあのような奇跡
が出来るのだ。それは「悪霊どもの頭によって悪霊どもを追い出している」とイエスを断罪して否
定します。以上がイエスをしつこく追い掛け回す理由です。
前回はイエスの弟子達が何故断食しないのかと言う質問です。イエスの救いは真に自由と柔軟な
心に変えてくれるものであります。パリサイ人の偏屈な教えに閉じ込めることは出来ないという事
を3つのたとえをもって示したのです。

今日は続けて23節からの話になります。パリサイ人から安息日について質問が激しくなります。
ここを3つに分けますと、①安息日の弟子たちの行動②パリサイ人の攻撃③イエスの答えです。

1、安息日の弟子たちの行動 23
①まず安息日とは何か。モーセの愛の律法、十戒(出エジプト20:8~11)に記されています。創造主が天地を創造した時7日目を祝福して休まれ、この日を聖であるとしました。これはモーセが神から10の愛と恵みの言葉を受けた第4番目の勧めです。安息日を覚えて聖なる日としなさい。6日間働いて7日目は休みなさいと言われました。実に人の事を考えている有り難い秩序です。1週間の内1日の休みを取る事によって生活リズムと健康を保つことができます。人の事を考えて人の為に設けられた制度です。
ところがイエスの時代になると既にモーセ律法にある神の愛と恵みの精神はどこかに吹き飛んでしまって、休んで喜びにあふれた生活ではなく、形式や決まりごとばかり守る事が中心となり、多くの場合神の恵みの精神は消えてしまいました。冷たい律法主義とでも言いましょうか。

②この安息日にイエス様たちは麦畑の中を通りました。そして弟子たちはお腹がすいたので、別の
言葉でいうと、ひもじかった、麦の穂を摘んで食べたのです。マタイ12:1~8・ルカ6:1~5を参照してみてください。季節は春から夏にかけてという事が分かります。こんなことをしたら礼儀正しい日本人ならば、これはいけない事をしていると思います。泥棒ではないか。たとえ小さくてもいけない。泥棒の始まりだ。しかしイスラエルでは黙って食べても泥棒ではありません。申命記23:24~25に、お腹がすいた時には隣人のぶどう畑に入ってとって食べてよいのです。但しかごに入れてはなりません。これすると泥棒です。また麦畑に入って穂を摘んで食べても問題ありません。但し鎌でごそっと刈ってしまうと泥棒です。人が生きる事に対してやさしいのが旧約聖書の律法というものであります。でも日本ではこのような事はしないでください。泥棒になりますから。因みにお腹がすいて麦を積んで食べた人はいますか。麦を積んで食べるとは、手で摘む、手で揉み出す、殻を吹き付ける、そして麦の中身を食べる行為です。これをして何もとがめられる筋合いはありません。問題の無い行為なはずですが、ところがすんなりとは収まりませんでした。
2、パリサイ人の攻撃 24
これを読みましょう。勿論イエス様も一緒になって食べたと思います。これを見張っていたパリサイ人は安息日にしてはならない事をしていると文句をつけます。メシヤかどうかを見分ける3段階の2番目の段階です。質問、審問、断罪に近いですね。何を文句言っているか。食べる行為そのものではなく安息日にしてはならない仕事をしているから重大なモーセの律法違反だと言って責めるのです。彼らの先祖は昔、口伝律法というものを作りモーセ律法の教えとして守ってきました。1500以上を定め事労働だからしてはならないという項目がありました。弟子たちのどの行為が労働に当たるかというと①麦の穂を摘むのは収穫する②手で殻を破り中身を揉み出すのは脱穀に当たる③息を吹きかける事はもみ殻と中身の選別作業に当たる④麦を食べる事は貯蔵に当たる。お腹に入れるからです。こうして本気でイエスと弟子たちを責め立てたのです。
3、イエスの答え25~26
昔ダビデ王と連れの者が、食べ物が無くてひもじかったとき神の家に入って供え物を食べた時の事を例に出して、命をつないでいく事は律法の規定に優先するのだと答えました。そして結論として、安息日は人間がより人間らしく生活出来る様に人間の為に定められたものであり、人間が安息日の為に造られたのではないといわれました。また人々はイエスを「ダビデの子」ともてはやしましたが、それはローマから自分たちを武力で救ってくれるメシヤのイメージが、イエスは神が人となられ、神と人の仲介者であるから自分を人の子と呼びました。私が安息日を定めた神であるから口伝律法は適用されない、また君たちが神の啓示を超えておかしな律法を作る事は許されないとして、人の子は安息日の主であると宣言されたのです。

適用 ○自分の心を探ろう
パリサイ人は安息日を誤解して生活をがんじがらめにしました。聖書を読むとよくもまあイエスの周りにパリサイ人が登場すると感心します。でも実は私達の内にも見かけをよくする為に形式的になり、人前で信仰的にふるまう、人を悪く言い、裁く心はありませんか。それこそ心の中のパリサイ人です。というと聖書に出てくるパリサイ人の姿は私たちでもあるのです。私たちはパリサイ人的になりやすいのです。それ故いつも心を聖霊によって整えさせていただきましょう。

その前に暗唱聖句をしてみよう。結論○現代に於ける安息日理解は
①安息日を喜び楽しもう。週に一度体を休め主を礼拝して安息日を心から喜びましょう。
②クリスチャンにとって毎日が安息日です。土曜日だけではありません。
③毎日が安息日として主にある良いわざに励み、善を行う日としましょう。
④私たちにはやがて永遠の安息に入る希望がある。Ⅱテサロニケ1:4~7

聖書を書いた著者が言わんとする事を読み取る訓練をしながらこれからもマルコ福音書から学んでまいりましょう。お祈りします。