マルコの福音書(12)

2022年12月13日

2016年9月25日
聖書箇所:マルコ2:18~22
宣教題:「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」

マルコの福音書から12回目の学びになります。マルコはイエスが悪霊を追い出し、熱病の人を直し、皮膚病の人を元通りに師、中風の人の罪を赦す権威を通して癒しを行い、このイエスこそ真のメシヤ(救い主)である事が示されました。そして前回は一人の人物がキリストの弟子として立ちあがった箇所でした。そうです。取税人マタイです。別の名前ではレビですね。当時ユダヤ人は名前が2つあったようです。イエスを救い主と信じて救いを受けたマタイは家にイエス様や弟子達、友達を招いて霊的誕生パーティをして喜びを分かち合うのですが、そこにパリサイ人の律法学者と言われている人たちが文句をつけに来ます。そしてイエスの弟子に向かって、何故あの人は、取税人や罪人たちと一緒に食事をするのかと言います。でもイエスは医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人です。マタイたちは道徳的に病人なのだ。だから私が必要なのだと言って食事を続けるのです。そしてイエス様は最後に一言ぴしゃりと言います。「私は正しいと思い込んでいる人を招く為ではなく罪人を招くために来たのです」しかし、これしきの事でひるむ彼らではありません。今度はバプテスマのヨハネの弟子達も一緒に来て文句を言います。

続けて今日は18節~22節です。その前に何故ユダヤ教指導者のパリサイ派律法学者たちが次々にイエスの前に出てきて文句をつけるのか不思議に思いませんか。これが分かると福音書の理解が深まります。当時のユダヤ社会はメシヤ(救い主)を待ち望む気持ちが大きくなりました。そしてメシヤは武力でローマの圧政から自分たちを救い出してくれるにちがいないと思っていました。そしてメシヤは自分たちの仲間でありモーセの律法を厳格に守る立派な人に違いないと思っていました。その内すごい人物が現れたぞという話が出てくるたびに、彼らは確認に行くわけです。それがイエスを追いかけまわす理由です。本物かどうかを確かめているのです。彼らがメシヤを見分けるのが三段階の手法でした。
一段階 沈黙・観察(マルコ2:6心の中で理屈を言う)
二段階 質問攻勢 直接質問する。2:16最初は遠慮して弟子に 2:18イエスご自身に
三段階 最終的な審判・評価 3:22ベルゼベルに取りつかれているからあのような奇跡が出来るのだ。別の言葉でいうと「悪霊どもの頭によって悪霊どもを追い出している」とイエスを断罪して否定します。以上がイエスをしつこく追い掛け回す理由です。

18節、さて続けてすぐ断食論争に入ります。皆さん断食した人はいますか。はい。今日朝起きるのが遅く朝ご飯を食べなかったというのは断食とは言いません。何か大切な事を決めるために食を絶って祈りに専念する場合があります。これが断食です。ところが聖書を読むと主なる神から断食の勧めと言うのはあまりありません。信仰者が自主的に断食する場合はあります。それはそれで良いことです。でも断食をしなくてもなにも問題ありませんので皆さんご安心ください。

ところがユダヤ教指導者パリサイ人たちは長い歴史の中で断食を何か聖書が勧めているかのように思い込みをしてイエスの時代には週2回月・木に断食していました。人に見せびらかせていかにも信仰熱心なふりをしていたのが当時の現状です。読んでみますか。ヨハネの弟子達やパリサイ人の弟子達は断食をするのにあなたの弟子達(ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネ、マタイたち)は月曜日も木曜日も断食日なのによくもまあ、食べてばかりいられますね。あなたがラビ(教師)なのだから弟子たちを指導してもらわないと困ります。ここは彼らが非常な憎しみをもってイエスを攻撃している場面です。それ故、断食はイエス様の心からはるかに遠いことでした。まして週に2回も断食する事が聖書の教えであると言われては全く神の心と正反対になってしまいます。彼らは得意になってイエス様を責めます。しかしイエスは3つの例えを持ち出して彼らの断食の愚かさを切り返しました。
1、花婿につきそう友達が断食できるか。19
当時の結婚式の宴会は1週間続きます。毎日食べで飲んでお祝いします。イエス様がこの地上に来られてから今までは信仰的には毎日がお祝いですから断食をするはずがありません。
※但し、20節花婿が取り去られる時とはキリストの十字架の死、メシヤの受難の時です。この時は断食すると言っているのです。
2、真新しい布切れで古い着物の継はしません。21
継の有るズボンをはいた経験がありますか。破れが酷くなるでしょう。
3、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる。22 皮袋とは
イエス様の時代には、動物の皮をそっくり残し、足を縛って蓋にしてぶどう酒を入れる皮袋をつくりました。これを担ぐわけです。ところが新しいぶどう酒は発行力が強いので古い皮袋では張り裂けてしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのが基本です。
※イエスはこの例えを話し、イエス・キリストにある生き方は喜びに満ちた者であるから、聖書から大きく外れたパリサイ的ユダヤ教の枠の中に入れる事が出来ません。キリストにある生き方は明るく元気でのびのびとしたものだとイエスは3つの例えを用いたのです。

適用 現代教会が聖書にないことを言う誤りは何か。
○日曜午前礼拝絶対厳守、これを守れない人は二流のクリスチャンであると言う考え。
本庄教会の皆さんにはこのように考える人はいません。日曜日の午前中に礼拝を守る事は素晴らしいことです。しかしこれ以外にも日曜日に休みが取れない仕事についている人は定期的に日時を決めて、例えば月曜日とは土曜日とか、水曜日とか集まりやすい時間帯に集まり主を礼拝する事もありです。聖書は日曜日午前の礼拝だけに限定して教えている訳ではありません。
○文脈を無視して聖書の覚えている(解釈は一つ、適用は多数の原則)
私も文脈を無視して間違って聖書を読み込んで解釈する時が良くあります。例えばⅠヨハネ1:9「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめて下さいます」これは信者が罪を犯した場合どうすればよいかを教える場面に適用している部分です。そうであるにも拘わらず、文脈を無視して未信者に適用して悔い改めを教えたりしてしまいます。著者が何を言わんとしているのかを読み取る訓練が必要です。
結論
イエス様の時代になるとパリサイ派律法学者たちはモーセ律法613ある命令を更に細かく分けて生活に適用し規則を沢山作り、民衆をがんじがらめに縛りつけました。これが口伝律法、言葉で伝える教えと言われるものです。律法学者はこれを全部暗記していましたからすごいです。しかし教えの中身は時間がたつうちにモーセに愛の律法の精神はなくなり形式だけが残って聖書とは全くかけ離れた生き方をするものとなっていました。
そのような背景の中で、どちらでも自由なのに断食論争を仕掛けてきたのですが聖書を真に理解して実践しているイエスは彼らの罠にかかりませんでした。
現代に於いても沢山の形式主義があります。あるいは聖書の一部を強調してこれが聖書の教えだというものもあります。私たちも物事の本質や原則を良く見分けていく力を養ってイエス様の様に明るく自由でのびのびと生きるキリスト者として歩ませてまいりましょう。