マルコの福音書(5)

2022年12月13日

2016年7月17日
聖書箇所:マルコ1:16~20
宣教題:イエスについて行こう  

マルコの福音書5回目の学びになります。今日の箇所はペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、この2組の兄弟たちがイエスの弟子として歩み始めた時の事が簡潔に書かれています。この箇所から学んでいきたいと思います。

1:16~18
シモン(ペテロの本名)とアンデレはガリラヤ湖のプロの漁師でした。彼らはこのガリラヤでイエスを出あいます。そしてイエスこそまことの神である事を体験的に知るようになります。イエス様は彼らの信仰を見抜いて弟子とする事を認めます。それが17節の言葉です。私についてきなさい。これは私の後ろを歩いてもいいよという事ではなく、弟子になってこれから共に歩む事をお許しになった言葉です。彼らはイエスの招きに応えてついていきます。18節、網を捨ておいて従ったとは漁師としてある程度安定した収入、生活、保証を捨ててキリストの弟子として従ったという事です。人間を取る漁師にしてあげようとは、自分の周りの人がイエスを救い主と信じて救われ喜びの人生に変えられる為の手伝いが出来る事です。自分の幸せばかりでなく、隣人の幸せの為に生きられるような人になるという事です。私たちもこのような人生を歩んでみたいと思いませんか。

1:19~20
ヤコブとヨハネの兄弟たちはどのような形でイエスの弟子になったのでしょうか。皆さんご存知のようにヤコブとヨハネはイエスの12弟子を代表するような人であります。この兄弟たちもまた、ガリラヤ湖の漁師でした。ペテロやアンデレとも仲間です。彼らも実はペテロたちと同じ体験をしてイエスと出会い「この方こそ神の子キリスト救い主」であると信じました。イエスは彼らの内にある信仰を見抜いてお呼びになり、「ついてきなさい」と声をかけたのです。彼らもペテロたち同様安定した職業、収入、立場を捨ててイエスの弟子になったのです。

さて今日の箇所だけ読んでもあまりに簡潔過ぎて今一つピンとこないと思います。実は彼らは既にイエスと出会い、大きな体験をしているのです。それがルカ5:1~11の記事です。この出来事を読むと「なるほどこうして彼らはキリストの弟子になったのか」と納得するはずです。このところを皆さんと一緒に開いて理解を深めてまいりましょう。

5:1イエス様の周りにはいつもたくさんの人々が集まりました。群衆が押し寄せる様にしてイエスの話を聞くために集まります。場所はゲネサレ湖(ガリラヤ湖の別名)です。ここに以前から面識のあるシモン・ペテロの小舟があり網を洗っていました。夜に漁が終わって網を洗うという意味です。因みに漁の方法は刺し網漁です。イエスは彼らに船を出してもらい浅瀬に少し漕ぎ出して座り、そこから人々に話しをしました。話が終わると今度は昼間なのにシモン・ペテロにもう一度漁をして魚を取りなさいと命じました。
5節のペテロの答えが面白いです。先生、私たちは夜通し働いたけれども何一つとれませんでした。私たちはプロの漁師です。あなたの言っている事に納得できません。でもあなたが言うのであればしょうがないから一回だけ網をおろしてみましょう。但し一回だけね。という感じです。イエス様は素人のくせにという事でいやいやながら従った感じであります。
6:でもその通りにすると網が破れそうになるほどの大漁でした。7:二そうとも沈みそうになるほどの大漁でした。ここからシモンの心にイエスの体する恐れと共に信仰が出てきます。今迄はイエスに対して上から目線で接していました。先生、私たちは夜通し働いたけれども何一つとれませんでした。これは、私たちはプロの漁師です。あなたの言っている事に納得できません。でもあなたが言うのであれば網をおろしてみましょう。しょうがないから一回だけやってみますけど。という感じでした。でも今はイエスに向かってひれ伏しているのです。イエスを真の神と崇めている姿であります。5:先生(ラビ)宗教指導者に対する尊敬の言葉。ところが今は違います。主よ(キュリオス)神に対する呼びかけに変わります。私のようなものから離れて下さい「私の罪をお赦しください」と信仰を表明する言葉を表しているのです。ここで彼は悔い改め神であるイエスとの出会いを通して自分の罪深さを認識しているのです。

この一連のガリラヤ湖の出来事があってシモンたちの心は変わっていきました。この場面を見ると彼らの決断がよく理解できるようになるのではないでしょうか。アンデレもヤコブもヨハネも同じ体験をします。

10:こうしてイエスに、あなたはこれから人間をとる漁師になるのですというイエスの招きを受けて弟子になる決心をし、自分の権利を何もかも捨ててイエスに従うようになりました。

適用
○あなたの思い込みは何ですか。
例えば文章は目の前で読むものという常識があると思います。でもアフリカのある国では違います。本が一冊しかない場合。みんなで同時に読むので上から読むのです。ある人は逆さになっている字を読むのです。読む訓練が出来ているからできるのだそうです。
また人に聖書を教えることや礼拝の時に宣教する事は牧師でないと出来ませんか。牧師だけしか宣教してはならない専門分野ですか。牧師が病気で礼拝奉仕が出来なくなったらどうすればよいのですか。思い込みは捨てましょう。時には牧師とかに関係なく賜物のある人が宣教する事も必要です。

○主の招きについて行こう。
私たちの内に住む聖霊の力により祈って進もう。

結論
イエスは今日も私についてきなさいとあなたを招いています。イエスの招きに応えてイエスに従っていこうではありませんか。イエスに従うと今の生活をいい加減にして、また親の世話を捨ててしまいなさいということではありません。それぞれが置かれた社会的責任を果たしつつ、自分に与えられている使命、役割を自覚して神と人に喜ばれるような誠実な生き方をしなさいという事です。その為に主イエスの御心は何かという事を考え、聖書の文脈を理解して聖書を読み、神の御心を知り、学び、更に私達の心の内に住んでいる聖霊の声なき声を聞いてそれに従う事です。

その為のポイントはイエスの御心に従順することです。お祈りいたしましょう。