ヨハネの黙示録(14)

2019年2月17日
聖書箇所:黙示4:1~11
説教題:天上の礼拝を見たヨハネ 

ヨハネの黙示録はやっと4章までたどり着きました。振り返ってみましょう。使徒ヨハネはローマ帝国から迫害されパトモス島に流刑になり、鉱山労働をさせられたと言われています。彼が島に来たのは紀元90年代ですので、非常に高齢です。信仰の友であるペテロや使徒パウロは数十年前に主のもとに召されています。昔の仲間はほとんどいません。直接イエスを知る最後の世代の人物がヨハネでした。彼ひとりが残された感じです。それだけ高齢になっていたということです。

ある時彼はこのパトモス島でイエス・キリストから黙示を受けました。黙示とはおおいを取り除くという意味であります。黙示の内容は今ある事について、また、後に起こる事についてでした今あることとは小アジアにある7つの教会についてのことです。イエス様からの称賛や叱責、悔改めるべき点を述べています。エペソから始まり、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤにある合計7つの教会についてでした。ここに出てくる教会はキリスト教会の普遍的な特徴を表しています。それ故現代の時代に適用できるものです。私達はどの教会に似ているのか、主イエスから称賛されるよい点はどこか、又悔改めることは何か考える必要があります。

この様に2、3章は7つの教会を通して地上のキリスト教会についてみていきましたが、4章では全く違った黙示をヨハネは見る事になります。即ち天に於ける礼拝の様子を見るのです。驚くべき光景です。そういう事で黙示の舞台は地上から天上に移ります。よろしいでしょうか。

1~2御霊によって天に引き上げられ天の様子を見たヨハネ
場面はがらりと変わります。天に開いた一つの門。この後必ず起こる事をあなたに示そう。
天に一つの御座、御座についている創造主、父なる神をヨハネは見たのです。

3~11様子
3:人間の目で見た範囲の事であり、人の表現には限界があり、言い表せません。それなので~の様にと書かれています。その方は碧玉(ジャスパー、青又は緑系統の石)や赤瑪瑙(ルビー)の様に見えた。御座の周りは緑玉(エメラルド)の様に見える虹。いずれにしても神の臨在と栄光を現わしています。人間には全部現わす事は不可能です。私たちも主のもとに行った時の楽しみという事でしょうか。

4:御座の周りに24の座。白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった24人の長老が座っている。
これは天使ではなく明らかに人間。栄光の姿に変えられた人々です。白い衣は信仰によって義とされた人が着るもの。長老たちの冠は褒美を受ける為の裁きを受けた後、勝利者に与えられる冠を示しています。それ故24人の長老は教会全体(すべてのキリスト者)を表す象徴的な数字と解釈することが出来ます。勿論私たちも含まれます。6章以降が7年間の大患難時代に入りますので、その前に書かれているのはキリスト者がイエスの空中再臨の時に携挙されるのは大患難時代の前にあると解釈するのが私の立場です。専門用語ですと患難期前携挙説と言います。但しこの携挙の時期については、他にも解釈があります。患難期中携挙説、患難期後携挙説の解釈の立場がありますので、自ら聖書をよく読んで自分の立場をはっきりする事を勧めます。愚かなことはこの携挙の時期をめぐって論争してけんか別れするという悪魔の巧妙な罠にはまることです。このような事が無いようにしたいものです。はっきり入れる事はこれから後一瞬にして目に見えない形でキリストの空中再臨があり、私たちは天に引き上げられ栄光の体に変えられるということです。携え挙げられる、漢字2文字で携挙と言います。これはキリスト者の希望なのです。ここはしっかり押さえておきましょう。キリストの空中再臨、即ち携挙とキリストの再臨は別であることを知って下さい。

5:ここでは聖霊について語られています。
7つの灯が御座の前で燃えていた。7つの御霊があると言うのではなく、ここでは神の御霊(聖霊)の7つの性質を述べています。こうしてヨハネは父なる神及び聖霊を紹介します。三位一体の神の内、父なる神、聖霊なる神について紹介しています。イエス様の紹介については5章6節で、屠られたと見える神の子羊として紹介されます。

6~8:4つの生き物の賛美 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
この生きものとは天使です。彼らが昼も夜も絶え間なく神を讃えています。頌栄ですね。神をたたえ、栄光を神にお返しすることを頌栄と言います。私達の教会の礼拝でも最後に頌栄して神に栄光をお返ししています。参考聖書箇所はエゼキエル1章、10章、イザヤ書6章。

9~11:天での礼拝
栄光、誉れ、感謝を捧げる時、24人の長老は創造主の前にひれ伏し礼拝し、勝利の冠を投げ出しています。栄光を神に返す行為です。あなたこそ栄光、誉れ、力を受けるお方です。これが天に於ける礼拝の姿です。言葉に言い尽くすことが出来ない様な礼拝です。

適用
○天の様子を見る。私たちにはこのような体験はあまりないと思います。
しかし使徒は体験しています。パウロ Ⅱコリント12:2~4第三の天、パラダイスに上げられたと述べているのです。ヨハネが見たことと同じ体験をしているのです。
私たちもします。Ⅰテサロニケ4:16~17、私たちもやがてキリストが私達をたずさえあげてくださる。空中で主イエスとあう。

○神に栄光をお返しする生き方こそ私達の生き方である
冠を投げ捨てた長老たち。冠とは信仰の勝利者のしるしです。しかし創造主の前に出た時にそれを惜しげもなく投げ捨て礼拝を捧げました。ここは私達の生き方の基本です。手柄、栄光、栄誉は自分にもとめないで、主のものとする。主に栄光を返す生き方こそ私達の目指す方向です。有名な言葉に「恥はわが物、栄光は主の物」という言葉があります。肝に銘じたいと思います。

まとめ
ヨハネが聖霊に導かれて天上の礼拝の様子を見てからこの地上を見たように、また、永遠の世界からつかの間の世界を見ていったように、又未来の世界を見たように、私たちもヨハネ黙示録を通して物事の見方、視点、考え方が根本的に変わって新たな歩みが出来るよう願っています。
そしてこの地上の生涯を主にあって生き抜き、栄光は主にお返しする生き方が出来るよう願います。