ヨハネの黙示録(12)

2019年2月10日
聖書箇所:黙示3:14~22
説教題:私はイエスを締め出していないだろうか 

14:今日は7つの教会にあてた手紙の中で最後のラオデキヤ教会から学びます。地図を見てまいりましょう。
○町の場所。位置の確認をする。フィラデルフィアからコロサイに向かう途中の町がラオデキヤ。
この町は豊かな町であった。例えばこの手紙が書かれる35年前、町が地震によって破壊されたがすぐに自力再建できるほどの富や力があった。この町の経済的な基盤は金融業、羊毛製品、目薬の産地として有名であった。
○名前の意味 民が治める
○ラオデキヤ教会の特徴 経済的に豊かであったが信仰的に生ぬるい教会、キリストを戸の外に追い出した教会であった。

14:イエスの紹介
アーメンである方(真の神 イザヤ65:16)忠実で真実な証人(キリストは神である)
神に造られたものの根源(天地の造られる前から存在し、天地創造のみわざに関わっているお方)この世界に対して権威を持って支配しておられる方。

15~17:イエスの叱責 
ラオデキヤ教会を全てご存じであり、愛するが故のイエスの厳しい言葉。
あなたは熱くも冷たくもない。
背景:古代社会では宴会や宗教行事には冷たい飲物か、熱い飲物が出された。生ぬるい飲物は出されなかったと言われています。
ここは日本人としてはピンときませんね。余り冷たい飲み物だと体に良くないと言ってお湯を飲むことは健康上勧められています。でもこの場面では今の日本的な背景はありませんので、日本的な背景で読むと意味が通じません。イエスは冷たいか熱いかはっきりしなさいと言われる。生ぬるい飲物は思わず吐き出すようになるから。

その流れで読むとここは冷たいか熱いかの飲物の事は彼らの信仰の在り方を示しています。冷たいとは信仰的に無関心な状態、熱いとは信仰熱心な状態と解釈できます。生ぬるいとはキリスト者でありながら、この世と妥協し、キリストを心から締め出している状態ではないかと推測できます。形だけの信仰者、あるいは救いを受けてはいるが信仰的に幼子のままの状態の人たちではないかと思われます。このような信仰者に対してイエスはこのままだと吐き出してしまうと述べています。

17:ラオデキヤの教会の信者たちは経済的には豊かで乏しいものは何もないというくらいに恵まれていたがその恵みを神と人の為に使わなかった為、神の前には信仰的、霊的に、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であった。また彼らは神の前に置ける真の姿を知らない。

イエス様は実にラオデキヤ教会の霊的信仰的堕落ぶりをイエスは冷静に、確実に見ています。私たちは本庄キリスト教会の一員として主イエスの前にみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であると指摘されるのだろうか。自分自身の生き方の総点検を迫られます。
18~19:イエスは愛なるお方だから忠告する。
ここはラオデキヤの町の特徴を踏まえて話をしている。ここがイエス様の信徒教育の特徴です。
先ほど町の産業。特徴は何と言いましたか。この町は金融業、羊毛製品、目薬の産地として栄えていた。これを踏まえてイエスは分かりやすく適用してラオデキヤの人々に忠告しています。

この町は金融業が盛んで沢山の富を蓄えていました。でも主イエスは火で精錬された金を私から買いなさいと勧める。神の喜ばれるように富を用いて、栄光は神に返すという本物の信仰に生きよと勧めているのです。

また、彼らは羊毛で栄えていた。羊の毛を刈ることです。故に黒い、美しい上着を着ていた。しかし、主イエスは信仰の義の衣の象徴である白い衣を私から買いなさいと勧めている。ここでも本物の信仰に生きよとの勧めです。

またラオデキヤは目薬の産地で有名でした。ここからの話は彼らの信仰的、霊的な目、洞察力を身につけなさいと忠告します。物事の本質、信仰の本質を良くわきまえられるようなものを身につけなさいということです。主イエスの教えは実に分かりやすいです。

19:私はあなた方を愛しているから厳しき叱責するのだ。愛から出る厳しさがイエスにはある。
20~22:約束
ここは有名な言葉ですが、文脈を無視して語られることがあるので正しく読みましょう。直接的には、イエスを戸の外に追い出して厳しく叱責されているラオデキヤ教会に向かって語られています。名前の通りに民が治めてイエス抜きのキリスト教会に語られている言葉です。
未信者に語られているのではありません。それを踏まえて、だれでもイエスは戸の外に立ってたたくと言われます。イエスの声を聞いて戸を開けるなら、私は入って食事をする。即ちイエス・キリストとの親しい交わりが回復すると宣言しているのです。ここに信仰の回復はいつでも起こり得るのだと教えられます。
適用
○生ぬるい信仰をイエスは喜ばない
私達は信仰者と言いながら真逆の態度を取ったりするときが時々あります。
そしてイエスを心の外に追い出してイエスを悲しませてしまう事が時々あります。
このような信仰者をイエスは悲しみ嫌います。何故か?キリストのお名前が汚されてしまうからです。私達はキリストの大使であるのでどんなに小さく、弱いものでありますが、キリストの心を求め従っていく姿勢だけは忘れないようにしたいと願います。何かを選ぶときにはいつもイエスの心はどちらにあるかを立ち止まって考え、イエスの側に立つことを選び取るようにしましょう。そして罪を犯したら悔い改めて新しくされて再スタートを切るようにしよう。
結び
主イエスに不従順が心に示されたら悔改め、心の扉を開けイエスをもう一度心の中に迎えるなら
イエスとの交わりが回復し平安と喜びが戻って来ます。
今日は7つの教会で最も信仰が堕落しているラオデキヤ教会について学びましたが、自分には関係ないとするのではなく、私もイエスを心の外に締め出していないだろうかと考えつつ主を見上げてまいりましょう。