ヨハネの黙示録(9)

2019年1月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2:18~29
説教題:人の思いや判断を見通す者 

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今日と来週は礼拝の後に責任役員4名が改選になりますのでその予備の投票があります。私達の教会は宗教法人格を持っているので役員という言葉を使いますが、聖書の言葉でいうと執事のことです。執事とは仕えるという意味です。イエス様に信頼して歩む人で、誠実で、表裏がない人です。そして何よりも本庄キリスト教会を大切に思っている人です。

具体的な奉仕は?例えば、教会の会計、会堂の管理、病人を訪問し祈りを捧げる、貧しい人を助ける、食事をふるまう、様々です。他にも仕える事は沢山あります。聖書箇所は使徒の6章やⅠテモテ3:3~13を参考にしてください。人気投票ではなく良く祈りつつこの条件に近い人を投票してください。
また今日はメッセージの跡、主の晩餐と呼ばれるパンとぶどうジュースを通してイエス様の十字架の御業を覚えて感謝を捧げます。
それでは黙示録2:18からテアテラ教会について学びます。次にイエスが書き送れと命じたのはテアテラ教会です。
18:宛先
エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラとなります。場所は地図にありますようにペルガモから南東65キロメートルにある町。毛織物や染色(染物)で栄えた町です。使徒の働き16:14にはムラサキ布の商人ルデヤがパウロにより救いを受けた話が出てきます。
18:手紙の差出人
燃える炎のような目を持ち:イエス・キリストはテアテラ教会の内部事情は全部お見通してある方。細かい点に至るまで全部見抜いている方という意味です。長所も、欠点も。
ここから適用は何か?イエス・キリストは今、私達本庄キリスト教会の細かいことを全部ご存じだという事です。良いところも欠点も。主を讃えている事も、他人の悪口を言っている事も全部見抜いている。その足は光り輝くしんちゅうのような神の子:裁き主キリストの姿があります。
19:ほめている
テアテラ教会の行ない、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。近頃の行いは初めの行いに勝っている。成長している姿を見る事が出来ます。初めの愛から離れてしまったエペソ教会とは逆ですね。
エペソ教会は愛が無くなって厳格さが残った。一方テアテラ教会は節操のない寛容さでした。対照的な教会の姿が浮かび上がります。愛と寛容、それに厳しさも必要です。
20~21:非難、叱責
自称女預言者イゼベルを野放しにしている。この女性は教会の中でキリストの僕たちに聖書が教えていないことを教えで導いていました。その教えの元、不品行と偶像礼拝を堂々としていたのです。その結果名前だけのキリスト教会になりつつあったのがテアテラ教会です。なぜこのような間違いがまかり通ったと思いますか?
私の推測ですが考えられる事の一つは当時、勢いがあったグノーシスという異端でした。この異端の特徴は霊肉二元論で、例えば、霊は善で、肉体は悪である。この考えが前提になって肉体の罪を犯しても霊的な面では問題ないと主張します。この様に考えれば罪をやりたい放題でもどうせ肉体は悪で例は関係ないとなれば全く問題がないことになります。もう一つイゼベルはキリストの僕たちに偶像に捧げた肉を食べさせました。

イエス様は直ぐに裁くお方ではありませんので悔改める機会をあたえました。けれどもイゼベルは悔改める事をしませんでした。
ここが問題ですね。私たちも弱いものですから罪を犯します。でもそのままにするのではなく、罪はすぐに悔い改め(方向転換)する事が必要です。そうしたならば、神は真実で、正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめて下さいます。こうしてもう一度スタートを切ることが出来るのです。でもイゼベルは主に促されても悔い改めませんでした。
22~23:裁きと警告
イゼベルは病の床に投げ込まれる。彼女は姦淫の罪を犯し続けたので寝床で病気になるのです。
イゼベルと同じように姦淫の罪を犯す者も悔い改めなければ苦しみの中に投げ込まれる。

23:女の子供も同じ、これはイゼベルに従い同じ道を歩む信者のこと。これらの人々も病気により死ぬ。これが主イエスの直接介入です。この様に偶像礼拝と姦淫は初代教会にとって大きな問題でした。特にこの罪は切り離されるのではなくセットでなされるのが特徴です。

こうしてテアテラ教会だけでなく全教会はイエス・キリストが全てご存じのお方だという事を知るようになるのです。これは厳粛な事実です。ところでこのような事が今はないのかというとそんな事は有りません。主の前にへりくだってこのような罪が起きないようにしなければなりません。

24~29奨励と約束
このような教会にも少数派ですが罪に巻き込まれない人々がいました。その人々に対する励ましと約束の言葉が続きます。これは次回になります。
私たちへの適用
23:主イエスは人の思いと心を探るお方
新共同訳は人の思いや判断を見通す者と訳されています。これはヨハネのいた時代だけでしょうか。現代に於いてはないのでしょうか。そうではありません。イエス様は現代に於いても私達の思いや判断を全てご存知です。本庄キリスト教会の事を隅から隅までご存知です。私よりも知っています。勿論今病の中にある竹内姉妹のことも良くご存知で、共にいて下さいます。主イエスは本庄教会をご覧になって、時には喜び、時には悲しんでいます。私達が何を考え、思っているか。その全てを見通すお方です。今日も愛と厳しさをもって私達と関わって下さるお方が主イエスであることを深く心に受け止めて歩んでまいりましょう。
結び 本庄教会の進む方向性は
私達は初めの愛から離れて愛のない厳格さや正義に生きたエペソ教会と違う道を生きよう。
また。テアテラ教会のように間違った教理を受け入れて大きな罪を犯しても、どうせ人間は弱いのだからといって主を軽んじ、何をしても許されるという節操のない寛容さから離れよう。

そして弱さや失敗をしながらも尚、キリストの愛から離れず、キリストを見上げ、キリストの心を心として生きる、キリストの教会として生きていこうではありませんか。
具体的には、キリストにあって互いに弱さを受け止め、互いに助け合い、励まし合いながらイエス様を見上げて生きる教会、主イエスは人の思いや判断を見通すお方であることを自覚しながら
新しい2019年を生きるキリスト教会でありたいと願っています。