コリント人への手紙第一(47)

2022年12月4日

2021年5月16日
聖書箇所:Ⅰコリント15:29~49(34)
説教題:キリストの復活と死者の復活

おはようございます。またネットをご覧の皆様おはようございます。今日もコロナ禍の中で最大限の予防をして礼拝出来る恵みを感謝します。ライブ配信準備もありがとうございます。

さて、先週はキリストが眠った者の初穂として死者の中からよみがえった事、私達の復活、世界を治める王キリストについて考えました。今日の箇所はその続き。49節まで行けるかなと思っていましたが、時間の関係で34節迄。35節以降は来週にします。予めご了承ください。

初穂としてキリストが死者の中から復活したのは、信者が復活する為でありましたが、コリント教会の人々の中には信じない人もいました。今日の箇所はそれに対するパウロの答えです。

●29:そうだとしたら。死者の復活がないとしたら(今までの事から)
キリストによって与えられる復活の希望がなければどうなるかと言うものです。
死者のためにバプテスマを受ける人たちは何のためにそうするのですか?これはいわゆる代理洗礼の事ですが、コリント教会の信者の中で死者に代わってバプテスマを受けることがあったようです。救いを受けて欲しいという心情的な希望があったのだと思います。

しかし、聖書的正当性の根拠はどこにもありません。それ故、一般のキリスト教会では代理のバプテスマを受けるような事は有りません。今も昔も。パウロもこの行為を正当化しているわけではなく彼らを皮肉って、死者の復活が無いならそんなことはしないでしょう。あなた方のしている行為は矛盾しているよねと言っているわけです。

●30~32:使徒パウロの生き方
㉚:使徒パウロは長い間、キリストの福音が届いていない所に出て行き、世界伝道した人でしたが、順調にはいきませんでした、絶えず大きな危険と隣り合わせの連続で、コリント第二11:24~27、鞭で打たれ、石で打たれ、船が難破し、一昼夜海上を漂い、盗賊の難を受け・・・その他数えきれない困難の中を通りました。
㉛日々死んでいるのです。文字通り、死ぬほどの困難を味わってきました。
㉜人間的な考えから、パウロがエペソで獣と戦ったのなら何の得があるか?
彼は、ローマ市民権を持っていたので、見世物として獣と戦うことはないと思われます。たぶんエペソで信仰故に反対者や妨害者達との激しい戦いを比喩的に獣と表現しているのだと思われます。

いずれにしてもそのような命を落とす激しい戦いは、死者の復活が、前提が無ければあり得ない無謀な行為です。パウロは死んでも復活する、望みをいつも持ち、確信していたので死の恐怖に打ち勝っていました。
㉜後半、またもう一つの例を出して、死者の復活がないなら「食べたり、飲んだりしようではないか。明日は死ぬのだから」これはイザヤ22:13からの引用です。確かにそうです。人はこの地上の生涯がすべてなら、生きているとき、ごまかしをしてもわからなければよし、この地上の限りある人生を、どうせ人は死ぬのだから、楽に生きればよい、生きている間にやりたいことをやり、自分の思いや考えを優先して生きた方が勝ちだという考え方です。困っている人や弱い人を助ける思いは少しもありません。究極的な自己中心になっていきます。ただここはコリント人ばかりでなく、私たちの姿でもあります。

この様に死者の復活が無い人生は地上の歩みがすべてです。しかし、死んだら終わりと考えるか、そうではないと考えるかによって、その人の人生は全く変わってきます。やがて私達も復活して主の前に立ちます(良い意味で)ですから地上の生涯を、キリストにある希望を持ち、主と共に生きる事を何よりも大切にしてまいりましょう。

●33:ここからパウロの勧め(命令)の部分になります。私たちに対する適用でもあります。
パウロはこのような生き方に惑わされるなと言います。当時言われていた言葉の引用から。

①惑わされるな、日本的に言うと、朱に交われば赤くなる。具体的に悪い交際は、死者の復活はないと言いふらす信者との交流。これだと良い習慣、聖書的な考え方が台無しになります。適用すれば、集まって礼拝を大切にしない、聖書を読まない、祈らない、献金をしない。教会がどうなってもかまわない。この流れで行くと、良い習慣が程遠くなる。如何でしょか?現実でしょう。でもここまで落ちたらその人の信仰も、教会も力を失ってきますね。
②目を覚まして、ただしい生活をしなさい
酔っ払った状態から目を覚ませ。正気に戻れ。具体的にはパウロの教えた事を思い返し、それに忠実に歩めという命令です。現代でいうと、聖書のみ言葉の原則に立って歩みなさいということです。
③罪を犯さないように
罪深い生活や考え方から離れよという命令です。罪を犯し続けることなく、罪を悔改めつつ、清められていく生活を目指せ。ここも私たちが、そのまま適用できる内容です。

結び
あなた方が、神を知る知識に於いてあまりに無知なので、あなた方をはずかしめるために、この事を言っておく。長い信仰生活があっても、聖書を読まないし、読んでも、読み方の原則が分からないから、自分勝手な理解しかできず、聖書が言わんとすることが理解できない。これでは困りますし、何よりも信仰生活がつまらないもので、感動がありません。そして、固い、暗い、つまらない信仰生活を送ることになってしまいます。

やっぱり私達は聖書を読むときには文脈を大切に、歴史的、文化的理解を深め、著者が言わんとすることを受け止めるような、読み方を基本としていく必要があります。そうすると聖書理解が進み、信仰生活が楽しくなり、明るく、元気で、のびのびとした歩みをするように変えられます。

結果として、人の前に、信仰深いというような見せる信仰になることなく、無理して明るく振舞うことをせず。個性や生き方を大切にし、のびのびとした信仰生活を送ることが出来るのです。
その為にもキリストの復活を通して、私達もこの地上の生涯の先に未来があることを確認し、より確かにこの地上の生き方を大切に生きるようになります。コリント教会の悪い見本から学んでまいりましょう。