コリント人への手紙第一(25)

2020年11月22日
聖書箇所:Ⅰコリント9:13~18
説教題:使徒パウロの誇り 

おはようございます。11月第4週を迎え礼拝をささげる恵みにあずかり感謝します。また一週間イエス様の再臨が近づいた中での生活を感謝します。昨日9時からテレビ東京のアド街に本庄⇒が特集されていましたが皆さんみましたか?私も見ましたが、知らないところが数ヶ所ありました。でも本庄⇒がアピールされて良かったと思います。

さて、今日も続けてコリント人への手紙第一9章13節~18節を通して、使徒パウロの生き方から、「使徒パウロの誇り」という題で共に学びます。

●13~14 使徒の権利
13:ここは旧約聖書時代のことを引用しています。レビ人や祭司たちは、神殿などで、神に仕え、人々の仲介者として奉仕をするのが仕事でした。彼らは信者の捧げ物の中から自分たちの生活の糧を得ることが認められていました。それをあなた方コリント教会の皆さんは知らないのですか、知っているはずだよねと問いかける言葉です。信仰のイロハだよということですね。

14:ここも同じことを主イエスの言葉から引用しています。マタイの福音書10章10節にイエスが12弟子を伝道に遣わす際に述べた言葉があります。「袋も、二枚目の下着も、履物も、杖も持たずに、旅に出なさい。働くものが食べる物を得るのは当然だからです」このようにキリストに立てられて主の働きをする人は献金で生活できるよう定められているのです。
又、ガラテヤ人への手紙6章6節~7節も同じことを言い、警告もしています。(読む)教える人とは教師、牧師。よい物を分かち合いなさいとは、信徒は牧師の生活の支えに役立ちなさいということです。皆さんはこういうことを意識して献金していますか?

13~14節は現代の牧師・伝道師にも当てはまります。
しかし、パウロがコリントで開拓伝道したときは、この使徒の権利を用いませんでした。
理由は12節の「かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」という事。彼は、もともとユダヤ教パリサイ派の律法学者で、キリスト教会を迫害していた前歴があります。その為、当時の教会の中に、パウロに疑いを持つ人がいて、「彼は金目当てに改宗したとか、教会を利用して食い物にしている」と中傷する人々がいたのです。パウロは、自分の行動が誤解や中傷の種となることを極力避けるために、コリント教会から報酬を受けないで伝道をしていました。

●15:コリント教会から報酬を受けないで働いたもう一つの理由がここに在ります。「しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした」彼は自ら天幕造りの仕事をしながら、収益を得て、生活し、伝道牧会をしていたのです。「権利を用いたくて、このように書いているのではありません」これは暗に報酬を申し出る為に書いているのではないという意味です。「権利を用いるよりは死んだほうがましです」ここは、感情的になっている書き方ですが、彼の正直な思いの現れです。何を根拠にこう言い切るのか。彼の心の内にはキリストから福音宣教を委ねられているという誇りがありました。誇りとは、行動や能力の優れているのを表すことを意味していますが、ここは人間的、肉的の誇りではなく、キリストに在る誇りを持っていました。この誇りを強く持って伝道・牧会する姿勢こそパウロが報酬を受けない理由でした。

●16:ここは15節の理由を説明しています。原文では「何故なら」という言葉から始まります。私がただ単に福音をのべ伝えているだけなら、それは少しも誇る理由にはならない。なぜか?私が使徒としての権利を捨てて伝道しているのは、そうしないわけにはいかないからだ。もし私が福音をのべ伝えないなら災いだという強い思いがあります。

●17:続けてもう一回、原文では何故ならこうですと言い出します。私がこの福音宣教の働きを自分から進んで、志願してするのなら、報酬を受けます。しかし、今の私の働きが自分の思いではなく、いやいやながら、強いられてでもなく、私に務めとして委ねられているのです。だれから?イエスからです。このように主から福音宣教の働きを任されているという確信こそが、パウロの生きる原動力でした。

●18:結び、ではパウロの報い、報酬は何か?それは、福音、良い知らせをのべ伝えるにあたって、誰に対しても無代価で福音を提供し、私の権利を用いないことが、報いであると言い切ります。
別の言葉でいうと、使徒パウロは神によって福音の管理者、務めを託されたことが自らの報酬だというのです。ここに彼は自分の使命や喜びを見出していたのです。
パウロはいつも主の前に忠実に生きたいという願いを持っていました。それこそが誇りです。ですから福音の前進の妨げになるようなことを、極力避けるためにコリント教会から報酬を受けず、神の務めを果たしたのです。

以上が使徒として主の務めを受けて生きる彼の生き方でした。パウロは使徒たちが献金で生きる正当性をのべていますが、彼自身はコリント教会の献金は受けずに、自ら働いて得た収入で生活をしていたのです。
しかし、彼は、ずっと自給伝道で生活していたのでしょうか?そうではありません。自給伝道だけが神のみ心だという訳ではありませんので、皆さん注意してください。例えば、同じパウロの手紙であるピリピ人への手紙4章14節~17節(読む)400頁には、初期の伝道の頃にはピリピの教会から数回にわたって経済的な支援を受けたことをのべているのです。時と状況によって判断し、支援を受けても安心なところからはきっちり受けています。

私達への適用
今日の聖書箇所から何かを学ぶか。すべてのキリスト者が、神から務めを委ねられている存在です。すなわちキリストの福音を誇りとする生き方。それは何よりもキリストの心を求め、キリストの心をもってキリストの僕として生きる事です。ここをもう一度確認していきましょう。

結び
今週もキリストの僕として、キリストを誇りとし、神から委ねられた福音に生きる務めに、励んでまいりましょう。