コリント人への手紙第一(15)

2020年9月6日
聖書箇所:Ⅰコリント5:1~8
説教題:思い上がるな 

おはようございます。9月第1週を迎え礼拝を捧げる恵みにあずかり感謝します。
今迄1章から4章を通して、コリント教会の問題、それぞれが指導者を立て、分裂、分派が学んでその原因は何か、又、どのように対応するかについて学んでまいりました。

今日は5章1節~8節を通して「思い上がるな」という題でメッセージします。皆様ご存知の様に、当時のコリント教会には様々な問題、課題がありました。パウロが次に取り上げているのは、不品行の問題でした。これは夫婦関係以外の不適切な性的関係のことです。

1:コリントは当時ギリシャの大商業都市で、繁栄していましたが、風紀が乱れた町としても有名でした。でもここでパウロは1年半伝道してコリント教会設立します。今、彼はコリントから離れたエペソに住んでいます。そこに報告が入り、このコリント人への手紙を書いています。これが1節の、「現に聞くところによれば」という言葉の意味です。

何があったか?みだらな行い。不品行。父の妻を父にしているとは、たぶん義理の母親を妻として関係を持っている人が一人二人ではなくいたということです。一回の間違いではなく、しばらくの間という事で、当時のローマ、ギリシャ世界でも見られないような恥ずべき行いでありました。

2:悲しむべき事なのにコリントの人たちは思い上がっていた。思い上がっている人たちについては4:18、19節でもパウロは指摘しています。どうして彼らは思いあがる人たちなのか?それは、この世の知恵や知識を誇っていました。また聖書の、み言葉が教える範囲を超えて、自由気ままな考えや振る舞いをしても神の裁きはないと考えたのかも知れません。神の前に敬虔というよりも、人に見せる生き方で能力を誇るのです。これが神の前にも人の前にも思い上がりの行為です。

2:「それなのに、あなた方は思い上がっている」と有りますが、ここでは悲しむべきなのに、思い上がっている。他に考えられる理由はなにか?例えば、人間は皆、罪人だからやむを得ないのではないか、厳しくすることは愛がないと考えたかもしれません。でも、これはもっともらしく聞こえますが実は教会の中の罪を広げるだけに終わってしまいます。
※日本の教会でも性的罪については個人的な事だからとか、傷つくからとか言って曖昧にしてしまう傾向があります。あるいは罪を指摘する事は愛がないと言います。神の前にどうあるべきかを考えず、この世の論理を持ち出してくるのです。論理をすり替え神の前に自分を正当化する生き方。

この世の知恵と知識からくる理解を基に、大きな罪と考えなかったのです。結果として、当時のコリント教会の人たちは不品行な行いを知りながら取り除こうとせず、パウロを馬鹿にしたのです。

3:でも使徒パウロは、今コリントにいませんが、罪は罪として既に裁いていました。この姿勢がコリントの人たちとは全く違います。
4~5:パウロはこのような者を、その肉が滅ばされるようにサタンに引き渡したと言っています。これはどういうことか?この罪を犯し続ける者は、当然教会の交わりから外され、裁きを受けなければなりません。(教会戒規に掛けて除名する)その行為をサタンに引き渡した、即ちサタンの支配下に置くと述べています。
でも最終的に、キリストの再臨の時には、辛うじて救いは残ります。このようにして使徒パウロは教会を腐敗から守り、また罪を犯し続ける者が悔い改める事を望んでいます。そして最終的にはその人自身の救いが確定していくように指導したのです。

6~8:誇るのは良くない。何を誇るか?自分の知恵や知識の事です。
この世の知恵や知識を誇ることに盲点がありました。それはわずかなパン種が、こねた粉全部を膨らます事を知らないのかという指摘です。
パン種とはイースト菌の事で、パンを作る時にわずかな、イースト菌を入れる事によりおいしいパンが出来あがります。でもここでのパン種は良い意味でつかわれていません。小さな罪が影響力を持って大きな広がりとなり、教会全体が腐っていくという悪い譬えとして述べられています。

7:パウロは古いパン種は取り除きなさいと勧めています。私たちは、出エジプト記に書かれている過ぎ越しの子羊の本体がキリストであることを知っています。子羊は予表で本体はキリストです。そのキリストが十字架上で私たちの罪の身代わりとなり、死んで葬られ甦りました。これを信じた者は新しい命、救いを受けます(罪のない者として見て下さる)。それをあなた方は種なしパンなのだという言い方をしてコリント教会の兄弟姉妹に教えています。

8:誠実と真実の種なしパンで祭りをしよう:これは神の前にも人の前にも誠実に生きて礼拝を捧げていこうということです。ここまでです。
自分達への適用
①思い上がり:聖書を頭では知っている。でもキリストより自分が偉いので愛を実行しない。
②コリント教会で起こった事は現代日本のキリスト教会でも起こる。不品行の罪の場合、裁くのは愛がない、人間はみんな弱い、プライベートな個人的な事、この罪は大きい事ではない等々、様々な理由を付けてうやむやにします。でもこれでは神の前に、悪いパン種を取り除かれないので、やがて腐っていき、証をする力がなくなり、やがて閉鎖となります。そうならない為に、私たちは、神の前にも人の前にも誠実に、それぞれの分を超える事無く歩んでいければ幸いです。

結び
今私たちは、世の終わりの始まり、産みの苦しみの時代に生かされています。今こそ自分自身が神の前にも人の前にも、思い上がってはいないだろうか。誠実に生きようとしているだろうか?
もう一度コリント教会から学び、自分の事として受け止めて行こうではありませんか。