コリント人への手紙第一(14)

2022年12月23日

2020年8月30日
聖書箇所:Ⅰコリント4:1~5
説教題:主イエスの前に生きる

※姓名部分はプライバシー保護の為伏字にいたしました。

おはようございます。8月第5週を迎え今日も礼拝を捧げる恵みにあずかり感謝します。
先週は●●姉妹の洗礼式を執り行うことが出来ましたことをご報告します。今日からコリント人への手紙第一に戻ります。題は「主イエスの前に生きる」です。

前々回のテーマ覚えていますか?そうです。「土台はイエス・キリスト」救いは受けたものの、この世の知恵からくる、間違った聖書理解、分派心を持ち込む指導者により、パウロたちが教えた福音、教会形成とは違う方向で進んでしまいました。それに対してパウロは警告したのです。その中で3章16節~17節をパスしたので、ここを確認して前に進んでいきたいと思います。

16:コリント教会の信者に対し、パウロは「あなた方は神の宮であり、神の御霊が自分の内に住んでいる事を知らないのですか」と述べています。ここで言っている「神の宮」は日本の神社の事ではありません。エルサレム神殿の事で、天地の造り主なる神の霊が臨在する場所です。これと同じようにキリスト者の内には目に見えませんが聖霊が住んで下さっているので神の宮と呼ばれています。その一人一人の集まりがキリスト教会であります。問題は17節の言葉の理解です。

17:「もし誰かが神の宮を壊す」と言うのは、神の宮の集まりであるキリスト教会を壊すという意味です。壊す:教会のトップはキリストなのに、救われていない偽牧師、偽指導者がキリストに代わり教会を支配するということです。そうすると聖書と違う、間違った教えが教会内に持ち込まれ、腐敗が始まり、堕落し、教会が台無しになってしまいます。これを壊すとか、破滅させるといいます。結果はどうなるか?偽牧師、指導者は主から滅ぼされます。ですからこの箇所は、信者が自殺したら、救いがなくなることを教えているのではありません。ここまでが前回の所です。

さて今日は4:1からです。コリント教会の混乱の原因は分裂、分派問題でした。私はパウロに、私はアポロに、私はケパにと、それぞれが指導者を立てて争っていたのです。ではパウロたちはどのように考えていたか。トップになりたいと考えていたのか。決してそんな事は有りません。

1:自分達を、キリストの僕と考えていたのです。キリストが主人でその主人の心をよく理解して忠実に仕えるのが僕です。これは現代のキリスト教会リーダーも同じです。教会内で影響力のある人の御機嫌取りや、へつらう事をせず、キリストのみこころを理解して如何に従うかです。

1~2:もう一つの立場は神の奥義の管理者です。ここでいう奥義とは、以前は隠されていたがイエスの時代に、示された神の真理です。具体的にはイエス・キリストの十字架の死と復活のみわざを通して救いを受ける事です。管理者(イエスから委託を受けた者)に求められる事は何か?忠実であることです。完全という事は有りませんが、神の御心の理解を深めて忠実に、そして誠実に実行する事が管理者の条件になります。

3:コリント教会は使徒パウロが第二次伝道旅行の時、1年半にわたり伝道して、設立されたキリスト教会です。でもパウロ達がコリントを去った後、パウロの悪口を言う人が出てきました。また彼は本物の使徒ではないと言い出す人もいたのです。裁く:批判、尋問、問いただす、吟味するという意味ですが、これに対してパウロは、目くじらを立てて反応したかというと、そうではありません。むしろ、それは小さなことであり、それどころか自分で自分を裁く事さえしないというのです。何故か?彼は主イエスの前に誠実に生きてきたから、そういうのは気にならなかったのです。

4:パウロは良心の咎めを感じていません。でも、だからと言って神の前に完璧な生き方をしているということではありませんので、自分を主の前に置き、私を裁く方は主ご自身だと告白しています。主は全てをご存じであるから、私は、自分で自分を裁く事さえしないとパウロは言うのです。

5:その根拠は主が来られるときに全てが分かるから。主が来られるとは「キリストの再臨の時に全部明るみになる」だから私は先走った裁きをしない。その再臨の時にそれぞれに自分の受けるべき称賛が与えられるのです。使徒パウロはこのように主の前に誠実に歩んだのです。

適用 ここから適用
○それぞれが知識を誇って教会に分裂・分派問題が起きるのは今の時代も同じです。聴くところによると本庄教会も、これに近い道を歩んだ事があります。もう一度、教会の土台はキリストであり、人の前にも、主の前にも謙虚に生かされる、また自分の歩み生き方を裁く、又は評価するのは主イエスだけであることを心に留めて歩みたいと願います。

○Ⅰペテロ4:10 キリストの僕、神の奥義の管理者は牧師だけではありません。
それぞれが、賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて仕え合いなさい。このようにすべての信徒が神の恵みの管理者として仕え合う、これは牧師だからとか、信徒だからという区別はありません。牧師も信徒もキリストの僕であり、主にある恵みの管理者として主の前に誠実に生きる事を主は望んでいます。これが出来る教会は成長します。

結び
主が私たちに求める生き方は、ここに集う全員がキリストの僕、神の恵みを委託されているもの、管理者として生きる事です。これはコロナ禍の中にあっても変わらない生き方です。