コリント人への手紙第一(10)

2019年10月27日
聖書箇所:Ⅰコリント2:11~16
説教題:私たちにはキリストの心がある 

おはようございます。今日は前回に続いてⅠコリント2:11~16節を通して学んでまいりましょう。前回までの流れを確認しましょう。パウロは福音を語る時に説得力のある人の知恵によらず神の力に支えられ語りました。即ち聖霊と神の力によって語っていたのです。
しかし6節では成人の間、すなわちキリストによって救いを受けた者の間では知恵を語ると述べています。
7~10:この知恵は人間の知恵ではなく、隠された奥義としての神の知恵であります。奥義とは英語のミステリーのもとになっている言葉で不可解な謎という意味です。神の知恵は確かに分かりにくいことは有りますが、神が時至って現わされた真理です。福音ですね。キリストが人として来られ、33年の生涯を歩み、人間の罪の赦す為に自ら十字架上で神の刑罰を一身に受けられた。そして信じる者を信仰によって救うのが隠された奥義であります。更に信仰者を栄光の姿に変えてくれる約束も述べています。しかも世界の基の始まる前からあらかじめ定められている。これは私達に対する約束でもあります。すごいことが奥義としての神の知恵であります。これをこの世の支配者は悟る事は有りません。

この世の知恵では考えられない事をするのが、まさしく隠された奥義としての神の知恵であり、これは神が用意してくれるものです。この世の知者には理解できないものを神は用意された。それが9節の言葉です。でもこれこそ御霊なる神、聖霊こそすべての事を探り神の深みにまで及ぶ御業であるというのです。ここまでが前回の事です。
皆さんにお断りしておきますが、話の中で御霊とか聖霊という言葉が出てきますが、これは全て同じです。信じる私たちの内に住んで下さるお方の頃です。

11:ここでは人の心の事はその人のうちにある霊以外、誰が知っているでしょうかと問いかけています。人のうちにある霊とは、私達の心、意識という理解で良いと思います。自分の心以外に、だれが自分の事を知ることが出来ようかということです。自分の事は自分が一番よく知っていて、他の人にはわからないということです。これはその通りだと思います。

同じように神の御心の事は、神の御霊、聖霊の他は誰もわかりません。まさしくこの通りです。ですから大切な事を考えるときは、まず神の御心か何かを、祈りつつ、求めていく事が重要になる訳です。良くあるのは、自分の思いを神の御心を思い込んで直ぐに実行してしまうこと。これをやるとすぐに行き詰まり失敗します。自分の思いで物事を進めると続かないのは目に見えています。静まってイエスの御声を聞く、あるいは別の言い方をすると聖霊の声なき声を聞くのがポイントです。何回も失敗する人はいつも同じところを堂々巡りしています。あなたは如何でしょうか。

12:キリスト者はこの世の霊を受けたのではなく、神の霊を受けた。これはどういう事でしょうか。これはキリスト信仰者のうちに聖霊が入った時の事です。御霊の内住とか言います。御霊、聖霊が住まわれるとか言いますね。
これはいつ受けるか、イエスは私の罪の身代わりに、十字架に掛かって死んで、よみがえられたと信じた時。この時に聖霊が内に住まわれ、これを新しく生まれると言います。
今迄は何とも思わなかったことが心にためらいが出てくるという経験はありませんか。あるならば、聖霊が住まわれた証拠です。御霊の内住を公に示すのが洗礼式であります。

恵み:救いは恵みによるものです。救いは私達が頑張って、自分の力で勝ち取るのではなく、信仰によって神からの一方的な憐れみによって与えられるもので、これを恵みと言います。この恵みは非常に大切な事で、キリスト信仰の核となる部分ですね。是非神の恵みに信頼して歩んでまいりましょう。
13:賜物は神の恵みによる救い、そして人が受けた御霊、聖霊の事ですが、これは人間的な知恵の教えでは理解できないとパウロは言います。

14:続けて同じことを言っています。人は生まれつきの心や感情、良心を持っていても神の霊はもっていません。だから、生まれながらの人間は、どんなに優秀であっても神の御霊に属する事を受け入れません。理由は彼等には愚かなのです。人間の罪の身代わりに、神の御子イエスキリストが人となってこられ、最後は呪いの十字架刑を受け、死んで、葬られ、三日目に復活したということを信じるのは、彼らにとってばかばかしいと考えるからです。

そして続けます。なぜなら~:このような真理は聖霊によってのみなされるものです。ですから人が救われるのは、只々聖霊による以外に方法はないのです。パウロが救われた時の様に聖霊が働かれる時、頑なな人でも救われます。ここは人間には、入り込めない分野ですね。

15:神と深い、密接な交わりに生きている人は、全てをわきまえる。即ち色々な事を神の御心に即して見分けて、信仰に基づいた大胆な決断をすることが出来るということ。そのような人は人からどのように評価、判断されようが動じる事は有りません。

16:イザヤ40:13、14にあるイザヤの問いかけ。誰一人として神の御心を判断し、評価できるような者はいるだろうかという問いかけです。
この聖句を引用してパウロは、ところが、しかし私たちは、キリストの心を持っていますと答えているのです。神の御霊を受けている人は神のお気持ちを受け止める事が出来るのです。但しここは自分の思いを勝手に神の御心と思い込まない事がポイントです。でないと何回も同じ失敗の繰り返しする人になってしまいます。一向に成長しないキリスト者のことです。
適用
神の御心は、神の御霊によってしかわからないのだから、私たちはもう一度神の御霊、聖霊を受けているという事を再確認しながら自分の考えを優先させていきるのではなく、主イエスの心を優先させて御霊に導かれて祈りつつ歩んでまいりましょう。
結び 今週も御霊に導かれて今やることは何かを考えながら歩もうではありませんか。