コリント人への手紙第二(27)

2022年1月23日
聖書箇所:Ⅱコリント12:1~10
説教題:私の恵みはあなたに十分である 

おはようございます。2022年1月23日、午前の礼拝を皆様と共に捧げる恵みにあずかり
感謝します。
またネット配信を通して共に礼拝を捧げているあなたもおはようございます。
早くも1月第4回目の礼拝となりましたがお元気でしたか?コロナ感染が広がる中ですが、
今日もよく換気をして、短い時間の礼拝を捧げています。どうぞよろしくお願いします。
それでは主イエスに従って生きる為、共に聖書から学び、自分の生活に適用してまいりましょう。

さて、今日はⅡコリント12:1~10です。コリント教会はトラブルが絶えない教会でしたが、その原因の大元は、パウロの後、コリントに来て、間違った教えをしたユダヤの偽使徒たちでした。彼らは偉い人の推薦状をもって、その権威を押し付け、非聖書的な教えを広めていったのです。
パウロとは全く逆の考え方の人たちです。

トラブルが絶えない教会となってしまったコリント教会に対し、手紙や訪問を通して働きかけをしたのが使徒パウロです。結果的に多くの信者が悔改めをしたのですが、依然として尚パウロに反対する人たちもいたのです。今日の箇所は10章の続きで偽使徒の支配下に在った人への箇所です。最後まで続いています。このような手紙を見ると、いかにパウロが偽教師との戦いで苦労したかわかります。と共に彼はこの機会に、何としても偽教師の影響力をなくしたいと考えていたかが良く分かります。そうでないとコリント教会はおかしいまま消滅していく事になりますから。

1:30節でパウロはどうしても誇ることがあるなら、私は自分の弱さを誇りますとのべていますがこの基本姿勢は変わっていません。しかし彼は弱さの内に神の力が現わされることを証明する為にあえて、ある人物の話を通して誇っています。

誇っても何の得にもならないのですがと、前置きして主から受けた幻と啓示を語り始めます。
彼は誇る事は愚かな事だと考えていた事は、はっきりしていますが。

2:ある人に実際起こった事の話を出しています。(キリストに在る一人のキリスト者)14年前に体験した事。この手紙が紀元56年頃に書かれたとするならば、紀元42年頃の話です。どんな体験か。第三の天に引き上げられた体験です。第三の天と言う言葉を初めて聞く人がいるかもしれません。こういう事です。第一の天とは地上から見える空間(鳥が飛んでいる空)、
第二の天は空気の無い宇宙空間、そして第三の天は主なる神、イエス・キリストが臨在する場所です。ここに引き上げられた体験、私たちが最終的に移される場所が第三の天です。いい言葉ですね。クリスチャンは意味不明な、安っぽい天国と言う言葉は使わないのが良いと思います。

3:対比法。私はこのような人を知っている。同じことを繰り返しのべています。

4:彼はパラダイスに引き上げられて。パラダイスは楽園と言う意味で、イエスと一緒に十字架に付けられて後、悔改めてイエスをメシヤと信じ救いを受けた人に対してイエスが述べた言葉の中にパラダイスが出てきます。開きましょう。 ルカ23:42~43。p171。
まことにあなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます。
パラダイスとはどこか。イエスの行かれるところです。このような書き方を対句法と言い、第三の天と同じ場所になります。実にこの人物が第三の天に移されたのです。この第三の天では言い表すことが出来ない言葉が語られていたといいますので全く別世界だと分かります。

5:このような真に神体験をした人をパウロは誇ります。あなた方の様に推薦状を誇って自分はすごい人なのだと自慢しているのとはレベルとは全く違うということです。しかし、自分は自分の弱さ以外は誇りません。これがパウロの本音であり、実に謙遜な人物です。

ところでこのすごい体験をした人は、いったい誰か?6節見ると分かります。

6:たとえ私が誇りたいと思っても愚か者とはならないでしょう。それは本当の事(真実を語っている)のですからと言う事になります。
しかし、その啓示が余りに素晴らしい、この言葉から、このような人は使徒パウロ自身である事が分かります。その啓示があまりにも素晴らしいとのべています。この第三者的な書き方は当時のユダヤ教のラビが自分の事を語る場合によく使った方法であると言われています。

しかし、この啓示が余りに素晴らしい経験なので、こういう事を話すと、人が過大評価するといけないので私は誇る事を控えるといっています。そしてこの経験は14年前なので逆算するとパウロが生まれ故郷キリキヤのタルソにいた頃と言われていいます。今日はここまでにします。

最後にこの時の霊的体験(天に引き上げられた体験)と弱さについて、少し詳しく考えてきます。
●引き上げられた パウロの霊的体験
2節と4節に出てくる言葉。これは、奪い取る、強奪する、無理やりに、さらっていくという意味があります。彼が祈りの内に何となくい移されたというのではなく、キリストによって速やかに、強引に捕えられ、引き上げられたのです。こうしてみると、これって何かに似ていませんか?
そうです、キリストの空中軽挙の時に私たちが体験する事です。
Ⅰテサロニケ4:17参照 p412。

●もうひとつ、前回の続きですが「誇るとすれば弱さ以外に誇らない」 5節
私たちは偽使徒たちの様に自分の家柄、手柄、実績を誇ることはしません。もし誇るとすれば自分の弱さ以外は誇らない。これを肝に銘じましょう。
因みにこの弱さと言う言葉は複数形です。パウロ自身も多くの弱さを抱えていたのです。でもそれがキリストから力を受ける秘訣なのです。7節から来週もう一回学んでいきます。
結び
私達も多くの弱さ、足りなさを抱えて生きていますが、それは恥ずかしいことでは有りません。
なぜなら弱さを認めて生きる時、キリストの力と恵みが十分に働き、覆ってくださるからです。  
今週も多くの弱さを認めつつ、弱いからこそキリストによって強められる、恵みはあなたに十分と言う主の声を意識しながらキリストへの信頼を深めてまいりましょう。