コリント人への手紙第二(26)

2022年1月16日
聖書箇所:Ⅱコリント11:23~33
説教題:パウロの誇り②弱さを誇ります 

おはようございます。2022年1月16日、皆様と共に礼拝を捧げる恵みに預かり感謝します。
またネット配信を通して共に礼拝を捧げているあなたもおはようございます。早くも1月第3回目の礼拝となりましたがお元気でしたか?コロナ感染が広がる中ですが、今日もよく換気をして、短い時間の礼拝を守っています。どうぞよろしくお願いします。それでは共に学びましょう。

さて、今日はⅡコリント11:23~33です。ユダヤの偽使徒たちに騙されたコリント教会信者は、高慢になり、知識を誇り、教会内でグループを作りそれぞれが自分勝手な道を歩んでいました。こうなると教会はキリストの体としての機能を果たせなくなります。
混乱ぶりを知らされたパウロは彼らに手紙を書いて間違いを示します。それがコリント人への手紙第一です。更に訪問して彼らの信仰を正しますが一向に悔改めがなされませんでした。そんな日がしばらく続く中で彼らが罪を悔改めたという知らせがテトスから届きます。

知らせを聞いたパウロは喜んでコリント教会宛てに手紙を書きます。それが、今読んでいるコリント人への手紙第二です。読み進めて今日は11章23節まで来ました。ここは何が書かれているか、パウロの後にコリント教会に来手間違いを教えた偽使徒達の影響を受け、パウロを悪く言う人が残っていたのです。なかなかすんなりとはいかないのが常の世の中です。

そのパウロ非難を続ける人に向けて書いているのがこの箇所です。前回見た様にあなた方をだました偽使徒達はキリストの使徒に変装するが、それは驚くに及ばず、サタンでさえも、光のみ使いに変装するからね。そしてパウロは誇り高ぶっている人に対して真の使徒として誇りをのべています。誇るのは彼本来の思いではありませんが、あえて誇りとする事をのべているのです。

今日は続きで23節から。前回ここは学びましたのでダブりますが、偽使徒たちはイスラエル人で、アブラハムの子孫であると誇りにしていましたが、私もそうです。
そして彼らはキリストの僕か。私は狂気したようにいますが、私は、彼ら以上にキリストの僕であると告白しています。ここから具体的に彼のキリストに在る誇りを語り始めます。
 偽使徒達は自分の系図、生い立ちや能力、推薦状を持っていることを、自分の業績を得意になって誇ります。肉による誇りで彼らが拠り所にしていたものです。

しかしパウロはそのような事を誇りません。どうでも良いのです。キリストによって使徒に召されキリストに忠実に生きることが彼の誇りでした。そしてキリストの十字架の御業の苦しみにあずかる事を何よりの喜びとします。彼は神の恵みの中でキリストとの交わりの中で生きる事を喜びとしたのです。

23:牢に入れられた事、鞭打たれた事、死に直面したことも度々経験しています。
これこそキリストの苦しみを経験することです。
具体的内容が24節~27節までの彼の経験です。陸地に於いて、同胞から鞭打ちの刑5回、ローマ人から3回、ユダヤ人から石打ち刑(死刑目的)海で難船3回、一昼夜海上を漂った事1回、
26:彼は伝道旅行したのですが、飛行機、車、電車は使えません。基本は歩きだと思いますが、旅をする中で、命にかかわるような災難をたびたび受けています。それが川の難、盗賊、同胞から嫌がらせ、迫害、異邦人の難、町、荒野、海上、偽兄弟によってだまされ、お金を取られたのかもしれません。数え上げたらきりがないほどの困難を受けてきました。

27:肉体的にも経済的にも苦しみを経験しています。労し苦しみ(つらい目に在って非常に苦しむ事)この為に夜も眠れないこともある。経済的困難や生活環境の困難。キリストのように生きた。

28:他にもいろいろある。キリストの使徒に任ぜられ、キリストに従うことは苦しみの連続です。例え使徒ではなくてもキリストに従うところには苦しみが伴います。これは極めて自然のことです。何故なら私たちキリスト者は基督のように生きるのが当然だからです。そうすると苦しみが当然あります。しかしキリストに在る喜びが増し加わります。

特に使徒としての苦しみは、すべての教会への心配、不安、コリント教会の兄弟姉妹はどのように歩んでいるのだろうか。ピリピ教会は強い姉妹たちが喧嘩していないだろうか。コロサイ教会には異端的の教えが忍び込んできていないだろうか。様々な心配や悩みが尽きない。これが使徒職です。※私は自分に任された教会だけで精一杯と言うのが現実です。

29:誰かが弱ければ、私も弱さを感じ、誰かが信仰を傷つけられ、躓けば私も悲しみ、憤り心が痛みます。彼は常に弱さの中にある人たちへの心配りを忘れない人でした。
※彼はキリストの様に弱い人のために生きています。私たちも同じ生き方になっていくものです。

30:偽使徒の誇りを通して、誇るのは愚かなことだが自分も誇ることにします。しかし彼は偽使徒の様に自分の能力や業績を誇ることはしませんでした(自分の手柄を自慢しない)。使徒としてキリストから召され、キリストと同じように生き、苦しみも賜ったという確信のもとに誇る必要があるならば弱さを誇ると告白しているのです。そして弱さの中にこそキリストが強く働きます。

31~:その証拠に私は弱さを誇りました。神の前に自分が偽りを言っていない事を語っています。
どんな弱さかというと、それは彼がダマスコで捕らえられ命の危険を受けた時(使徒9:24)を証ししています。これを偽使徒達はパウロが逃げたので、臆病者とか、何故殉教しないのかとか言って非難します。しかし彼は命の危険が迫っていたので逃げたのです。その弱さを彼は誇っているのです(30節)。それ故に彼はこの後助けられ、この後多く労苦しながらもキリストと共に生き、異邦人にキリストの福音を生き方や言葉を通して伝えたのです。彼がいなければ異邦人伝道は進みませんでした。こうして彼は大きに弱さを誇る事を、身をもって示したのです。
適用
私達も自分の弱さを恥じる事は有りません。むしろ神の前にも人の前にも弱さを認め、主に信頼して生きようとするときに聖霊が働き、逆転の人生へとつながるのです。心配や不安なことが多い社会の中に在ってパウロの時代と同じようなことが今も起きています。しかし、だからこそキリストが共にいて弱さの中に在って働いてくださっているのです。
結び
自分の弱さを認め、肩肘張って誇ることなく、キリストの力に覆われる歩みをさせていただきましょう。また来週お会いいたしましょう。お祈りします。