ピリピ人への手紙(12)

2022年07月17日
聖書箇所:ピリピ3:1~11
説教題:キリスト・主イエスを知っている素晴らしさ

おはようございます。2022年7月第3週の礼拝を捧げる恵みにあずかり感謝します。

またネット配信を通して礼拝しているあなたもおはようございます。お元気ですか?

先週からWI-FIがきちんと機能するようになりましたのでご安心ください。それでは最後まで

一緒に礼拝をささげてまいりましょう。

さて今日の聖書箇所はピリピ人への手紙3:1~11になります。パウロの勧めを思い出してください。福音にふさわしく生活しなさいと言う事でした。別の言葉でいうと、いつもイエスが自分の前にいることを意識しながら生きる事でしたね。その為にもイエスのへりくだりを模範にする。またテモテとエパフラデトのキリストにある生き方からも学びました。ここまでが2章です。

今日からいよいよ3章に入ります。

1:最後に兄弟たちとありますので、ここから話の内容が変わり新しい段階、勧めに入ります。早速来ました。主にあって喜びなさい。そうはいってもパウロが置かれているのは牢獄の中で、通常は喜べない環境です。しかも劣悪な状況の中で、鎖につながれ裁判を待っている状態でした。

しかし彼は、イエス・キリストを信じていることの素晴らしさを知っていました。さらに自分の使命を理解し、キリストにあって生きていますので、喜びにあふれていました。

いかがでしょうか。皆さま。あなたは想像できますか。ものごとがうまくいっているならよろこべます。でも逆境の中にあると喜べません。ある意味当然です。しかし彼は自分が喜んでいたのでピリピ教会の兄弟姉妹たちに喜べと命じています。無理して喜べと言う事ではなく。

彼が喜べたポイントは主にあってと言う事です。これは信じたときに目には見えないがキリストの中に入れられ一つにされ新しいキリストの復活の命を受けて。そうです。聖霊によってバプテスマされキリストと一体にされた。その時に新しい命を得たのです。だから状況がどんなに厳しくても喜べる土台が出来ている。だから喜びなさいと勧めているのです。これなら無理がないでしょ。

2:三つの警告

犬に気をつけよ。ユダヤ人は犬を豚と同じように不浄な動物、穢れたものとみていました。それを警戒しなさいという警告。なぜ警告するのか。次に出てくる、その正体は本物の犬ではなく、ピリピ教会をかき回している悪い働き人、偽教師のことです。

この人たちが、当時この地において、キリスト教教師のふりをしながら偽の教えをして報酬だけもらって巡回していました。この偽教師に当時のキリスト教会はかき回されました。ピリピ教会もその被害を受け教会の中が混乱していたのです。他にも偽教師に騙されていた教会がありました。

そうです。コリント教会も同じでしたね。偽使徒たちが乗り込んできて偽の福音を伝えて教会を分裂させ非常に大きな問題にまで発展したのです。※異端との戦いは今も昔も同じです。

  • 三回目の警告、彼らを肉体だけの割礼の者と言って、気を付けよと警告しています。では割礼とは何か?これは非常に良いものです。ユダヤ人は割礼することをアブラハム以降代々大切に守ってきました。なぜか。創世記17章アブラハムが99歳の時。この時から彼はアブラムからアブラハム、多くの国民の父という名前に変わります。そしてアブラハムは神と契約を結びます。心から神を愛し従うしるしとしてアブラハムは割礼を受けます。他に男性も全員割礼を受けました。

割礼とは男性の性器の包皮の肉を切り捨てる行為で、心を尽くして神を愛し従うことを表しています。ただなぜ包皮の皮を切り取ることが心を尽くして神を愛し従うことにつながるのかはよくわかりません。ただ神がそのように命じたのでアブラハムはそれに従いました。(創世記17章)

これ以来アブラハムの子孫は代々割礼を神との祝福の契約のしるしを大切に行ってきたのです。でもいつの間にかユダヤ人は、信仰を大切にするのではなく、割礼という外見だけの行為を行い誇るような人々が出てきました。これをパウロは問題視して警告しています。因みに女性割礼はなし。

3:では何が大切か。神の御霊に導かれて礼拝する事です。自分の努力や自分のすぐれたところを誇るのでなく、キリスト・イエスを誇りとする信仰者を神は喜びます。※肉に頼らないとは人間の生まれながらの性質に頼らない人、別の言葉でいうと頑張らない人。主に信頼し力を受けてついていこうという人。こういう人が本当の信者で有り真の心の割礼を受けた人だと言うのです。

今の時代でも割礼は衛生上大切ですので西洋諸国では男子が生まれら八日目に割礼を受けます。但し宗教的には受ける必要はありません。むしろ信仰的な意味で真の心の割礼を受けることを勧めています。それは罪の心の包皮を切り取って神に対して生きたかかわりを持つことですから。

そしていつも神を求め、心を尽くして神を愛すること。これが最も重要で、これが新約聖書時代における割礼の意味です。それは主にあって新しくされた私たちが心を尽くして神を愛する印なのです。今日は時間の関係でここまでになります。次回は最後まで行きます。

適用 ●主にあって喜べ

あなたは喜んでいますか。喜べない状況の時もありますね。でも私たちはキリストと連なり一体とされ、キリストの命を受けています。だから私たちは喜べるのです。そのことを踏まえると普段の生活にあってどんな困難をも乗り越えることが出来るのです。すべては益になるから。そう考えると生き方が変わるので笑顔が増えてくるのです。いかがですかあなたは?このような受け止め方をして自分の人生を生きていますか?

  • 偽の教えに気をつけなさい。※昔も今も変わらない

今統一教会が世間を騒がせています。献金は神のものを神にお返しすることで、本人の自由意思による自発的な信仰行為です。彼らがしているのは占いで先祖の罪を示して間違った情報で追い込み、無理やり献金を迫るこれが統一教会のやり方でマインドコントロールです。偽の教えです。ここに出てくる悪い働き人も聖書の表面的、形だけ教え割礼の本当の意味を教えません。それが偽の教えです。

ですから聖書は気に入った言葉だけを拾い読みしたら間違う事が多くあり、律法的、形式的信仰になって人を高慢にさせます。これは聖書信仰ではありません。聖書は文脈を大切にして歴史的背景、当時の人々の生活習慣や文化的なことをくみ取り、なおかつ著者の言う事をくみ取る練習をする必要があります。そして大切なのは自分の生活に適用する。そうすると聖書の信仰になり力が出てきます。 結び

キリストに連なっていることをいつも喜びつつ心を尽くして神を愛する信仰者へとならせてもらいましょう。