ピリピ人への手紙(9)

2022年06月19日
聖書箇所:ピリピ2:12~18
説教題:不平を言わず、疑わず

おはようございます。2022年6月第3週の父の日に共に礼拝を捧げる恵みにあずかり感謝します。またネット配信で礼拝をささげているあなたもおはようございます。お元気ですか?同じ時間に主を礼拝できますこと感謝します。それでは聖書から共に学んでまいりましょう。

今日の聖書箇所はピリピ人への手紙2:12~18になります。先週のメッセージを振り返ります。ピリピ教会生み親であるパウロがとらえられ、投獄されたことによりピリピ教会の兄弟姉妹たちに変化が生じました。そして教会の内部にいろんな動きがでてきます。ある信者は妬みや争いをもってキリストを伝え、ある人は党派心をもってキリストを伝えるようになりました。

こうなると教会は主にあって一つ心になることが出来ないので、パウロは心を痛め、キリストの福音にふさわしく生活しなさいと勧めます。キリストの福音にふさわしい生活とは、今キリストが自分の前にいる事を意識して生活すること。天に国籍を持つものとしての生き方です。

では教会が主にあって一致する具体的な勧めは何か。自己中心や虚栄心を捨て、人を自分より優れたものと思いなさいという事です。優れたものと思うとは、その人の能力に関係なく、自分の上座に座るべき人だと認める。そのうえで自分のことだけでなく、他の人のことを顧みる生き方です。

そして私たちが生きるべきその模範こそ主イエスのうちにあり、当時うたわれていた讃美歌を紹介して、イエスの謙遜を身に着けるよう勧めています。それが6節~12節です。天におられるキリスト、僕として、人となってこられたキリスト、人の罪を許すため、罪のないキリストが罪びとの代わりに十字架上で神の刑罰を身代わりに受け、死なれた事。そして復活し天に帰り、もう一度地上に戻ってこられ全世界を治める。その時全てが「イエスは主である」と告白してあがめられることです。このイエスの生き方を紹介して謙遜に神に従う道を示したのです。

そして今日は12節から。

12:こういうわけですから、どういうわけ。それはキリストが神でありながら人となり、地上の生涯を謙遜に生きたこと。あなたがたもこのようにキリストの従順を模範として神に従いなさいという勧めです。

このことを意識して、教会は一つ心とされていきます。今、私は牢獄にいてあなた方と一緒にいない時こそなお一層、神の御心に従順しなさいと命じています。

恐れおののいて(これは怖いとか恐ろしいという意味ではなく、神の前に誠実な心をもって生きよと)そのうえで自分の救いを達成しなさい。これも誤解しやすいので説明します。救いを達成しなさいとは、まだあなた方は救いが十分ではないので熱心にならないと、最後の救いからこぼれるから頑張れと励ましているのでしょうか?そうではありません。救いは信仰によって与えられているので皆さん大丈夫です。イエスに心を背けることなくイエス様を大好きになり、隣人を愛し続けて歩んでいこう。これが自分の救いの達成に努めよという意味です。

13:そのためにも神はいつもあなたがのうちに働き導いてくださる。ここの主語は、ピリピ教会の兄弟姉妹や私たち私達信仰者でなく、神です。神が一人一人に働きかけ各人に志、願い、御心を示して神の御業を示してくださいます。

※ですから私たちは自分の思いや願いを優先するのではなく常に神の御心は何かを模索していく必要があります。私達の得意業である神のみ心を自分の心に合わせることはやめましょう。

14:では私たちが神の御心に生きるためにはどうすればよいでしょうか?それが14節。①これは神の前に、私たちの大好きな不平は言わない事。別の言葉でいうとつぶやきです。「自分はこんなにみじめだ。なぜ神様は私だけをこんな目に」この言葉からは何も良いものは得られません。

昔モーセの時代に出エジプトしたイスラエル人は、最初エジプトの奴隷生活から解放されて喜んだものの、旅の途中に様々な試練に合うとすぐ神に不平、つぶやいたために荒野の生活40年の間に成人していた男子は皆神に滅ぼされました。ついにカナンの地に入れなかったのです。これは私達への教訓として神に不平はいかに大きな罪かを示されます。不平、つぶやきは口チャックです。

②もう一つ神の前に生きるポイントは疑わないことです。人間関係において時に疑うことが必要です。生きる知恵として。しかしこと神の前にあっての疑いは捨てよう。なぜなら神はピリピ教会の人々の先を見越して導くから。最終的に神は人に最善を尽くしてくれるのでそこを信じて行動しなさいと言う事です。※これも私たちに対してそのまま結びつくことですね。

15と16:それがピリピ教会員の為に重要なことだからです。神の前に不平と疑いを捨てることによって得られるものは何か?

  • 責められない純真なものとされる。これは人から責められると言う事ではなく神の前に生きるキリスト者としてキリストの再臨の時に神から責められないと言う事です。純真とは神の前に100パーセント信頼をして生きている。傷のないとは主の前に恵みによって生かされている人。その力は今のように時代が曲がった悪の中でも発揮されるものです。
  • それによってキリストのいのちの言葉(神の言葉、聖書)をしっかり持って生きる。

③どんな時代でも世の光として輝きをもって生きる人生を送れる。

※これもそのまま今の時代の私たちに当てはまります。

・ピリピの教会員がそのように生きればパウロの思いとして、私の歩み、苦労が無駄にならずキリストの日(再臨の日に)あなたがたを誇り、喜ぶことが出来るのです。

17:そそぎの供え物、たとえ私が殉教の死を遂げてもそのことを喜びます。18:あなたがたも喜んでください。こうしてパウロは4回も喜びという言葉で締めくくっています。

結び

一連の勧めを見てきましたが、ピリピ教会への勧めはキリストの福音にふさわしく生活すること。それは天に国籍を持つものとして、目には見えないがイエスが自分の前におられることを意識して生活することです。そして何よりも信仰生活は利己心や虚栄を捨て、人を自分よりもすぐれたものと認めて生きる。

そのための模範は神が人となってこられたイエスキリストです。神の御心にたいして、

不平を言わず疑わず主を信頼して従順に生きる事であります。

いつも神の主権、導きを認めつつ、私はそれに従い一歩でも二歩でも近づいていく。

そうしていくならどんなに世の中が悪くなっても主の恵みを十分受け、喜びをもって生きるキリスト者に変えられます。