ピリピ人への手紙(1)
2022年04月24日
聖書箇所:ピリピ1:1~11
説教題:キリスト・イエスの愛の心をもって
おはようございます。2022年4月第4週の礼拝を共に捧げる恵みにあずかり感謝します。
ネット配信で礼拝を捧げているあなたもおはようございます。お元気でしたか?
この時間を共有できる事を感謝します。
今週からしばらくの間、ピリピ人への手紙を学んでまいります。題は「キリスト・イエスの愛の心をもって」。それではご一緒に学んでまいりましょう。
ピリピ人への手紙を1章から4章まで続けて読まれた方は何人位いますか。はい有難うございます。聖書の読み方は好きな箇所だけを部分的に読むのではなく、一つの文章を読むことが大切です。そして手紙全体を読んでパウロが何を言いたいかを考え、自分がどう受け止め、行動するかです。聖書に何が書いてあるかを理解したら、それを行動に変えていくと生き方が変わります。
簡単に資料をまとめましたのでご覧ください。まず手紙全体を理解しましょう。資料を読む。
ピリピはギリシャの北にあるマケドニヤ州にある町の名前です。ここを使徒パウロが第二回伝道旅行の時に訪ね、伝道が働きによりヨーロッパ最初の教会が誕生したわけです。早い時代ですね。
因みに日本はパウロから1500年後にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが九州に上陸して福音が伝えられ教会が設立しました。この時ザビエルの通訳をしたのはヤジロウという日本人です。日本にキリスト教が伝えられたのは非常に遅いですね。プロテスタントは150年前。
さて、パウロが手紙を書いた場所はローマだと言われています。目的は自分の状況を伝え、
ピリピ教会の兄弟姉妹を励まし、間違った教えについて注意を促すためでした。また、読むと気付きますが、喜びと言う言葉が何回も出てきます。(1:4、18、25。2:2、17、18)それ程パウロが喜びにあふれていたが分かります。そしてピリピ教会の信徒たちも喜びをもって信仰生活をしていたのです。同じ手紙でもコリント教会とはずいぶん違って平和な教会だと思います。
また彼が手紙を書いた時は、自由に行動している時だと思いますか?文章を読んでいくと分かりますが、キリストの福音を伝えたために、捕らえられ牢獄に入れられていました。しかも鎖に繋がれ、不自由な生活です。拷問を受け、いつ殺されるかわからないような不安定な中で書かれたのがピリピ人への手紙であります。そんなことを頭に入れて学んでまいりましょう。1節から3つ。
- 初めに1:手紙は挨拶から始まりますね。いきなり本題には入りません。
自己紹介:親しい人に自己紹介する言葉はどのような感じですか。当たり前すぎて思い浮かばないかもしれません。しかしパウロたちは堂々と自分を紹介しています。救い主イエスの僕パウロとテモテと紹介しています。弟子でもよい紹介の仕方だと思いませんか。弟子の方が僕よりかっこいいですよね。でも彼はしもべと言う言葉を使っています。実は奴隷と言う意味です。奴隷は主人に全面服従する立場で、奴隷の所有権は自分ではなく主人に在ります。そうです。私の主人はイエス・キリストであると宣言し、その生き方を彼らは誇りとしていたのです。
※これは私達にもそのまま適用されることです。私達の主人はだれですか、自分自身ですか。そうではありません。私達の主人はパウロと同じように主イエス・キリストです。そうするとどういう生活スタイルになるか。当然自分の考えよりご主人様の考えや方針が生活の基準になるはずです。神の御心を優先して生きようということですね。
でもその逆の事をして私たちが何回も同じ失敗するのは、主の御心よりも私、自分の御心、考えを優先して生きるからです。そうすると人生死ぬまで同じ失敗の繰り返しというみじめなクリスチャンになってしまうのです。こういう話をすると耳が痛いのです。
- 2つ目はキリスト・イエスにある全ての聖徒たちと言う言葉です。これはキリスト教会を良く言い表している言葉です。キリスト教会とは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰者の集まり、群れと言う事になります。ここには信じ人の様子が書かれています。キリスト・イエスにあるというのに注目。「ある」とはキリストに結ばれているということです。私達それぞれが、イエスをキリスト救い主と信じました。具体的には、イエスが私の罪を赦す為に十字架に掛かって死に、葬られ、よみに下り三日目に復活し、今も生きておられることを信じたその時に救いを受けます。
救いを受けた時に目には見えませんが、私達はキリストの内に入り、キリストと命で結ばれたということです。あなたも私もyesを信じた(信仰)時に新しい命でキリストと結ばれているのです。
この結ばれた時を聖霊によってバプテスマされたといいます。即ちキリストと一体となったのです。ですからキリスト・イエスにある全ての聖徒たちの群れがキリスト教会なのです。
ついでにもう一つ。聖徒たちは学校の生徒と言うのは、キリストによって罪を赦されこの世から別に取り分けられたという意味です。聖徒と書かれるとおこがましい感じがしますが、でもここにいる私たちの事でもありますのでそのように受け止めよう。そしてこの立場は一生懸命信仰生活してこうなったのではなく、キリストの十字架の血潮によって罪きよめられて与えられた立場が聖徒の意味です。救いは全部イエスがしてくださり私たちはその御業を信じるだけで救われる。
- 3つ目最後です。監督たちと執事たち。イエスをメシヤと信じた人の群れがキリスト教会なのですが、教会は誰が偉いとか、偉くないとかの区別はありません。皆神の前に平等です。それ故に教会総会で選挙する時も在る人は3票、ある人は2票、ある人は1票とではなく全員1票です。
しかし神の組織にも当然役割、役職分担と言うものがあります。リーダーが起こされ、それが監督と執事たちです。監督は信者の群れを支配するのではなく模範となって指導する人で、別の箇所では牧師とか長老と呼ばれています。聖書の言葉を解き明かし、間違った教えから守り、群れ全体を守り、困っている人がいたら助ける。そういう役割を担っているのです。
一方執事は仕える者と言う意味です。聖書の解き明かしもしますが、監督と違うところは主に教会運営の実務全体を担っていく立場です。今で言うと会計処理、会堂管理、弱い立場の信者や家庭を支えていく、その他信者の全体的なお世話になります。これらの働きは監督も執事も、キリスト・イエスの愛の心をもって関わっていくことが基本です。監督と執事は牧師、役員と呼ばれますが働きは同じです。
以上3つを考えてみました。是非私たちもピリピ教会と同じ教会として、キリストに結び合わされた、キリストの僕として聖徒たち、監督も執事もキリストの愛の心をもって主に仕えて行きたいと願っています。