信仰の在り方をもう一度考えよう 

2022年12月23日

2018年08月26日
参照聖句:エペソ2:4~10
説教題:信仰の在り方をもう一度考えよう 
松井田礼拝宣教

おはようございます。本庄キリスト教会の吉田孝と申します。お招きいただきありがとうございます。今日は皆さんと共にもう一度聖書のみことばを通して「信仰の在り方をもう一度考えよう」というテーマで学んでいきたいと思います。
何故このテーマにしたかと申しますと、自分が歩んできたクリスチャン生活は果たして聖書が語る信仰の歩みをしているだろうか。少しずれていないだろうかと考えさせられているからです。勿論救いは確かであり、聖書をそのまま字義通りに信じる立場は揺るぎません。ただアメリカやヨーロッパ経由のピユーリタン的キリスト教であり、個人主義的色彩が強く、霊的聖さを追い求める歩みでした。良いところは残しつつも見直しが必要なところもあります。当たり前の事ですが聖書はユダヤ人が書いたものであり、ユダヤ的背景や視点からもっと学ぶ必要があると思わされています。そうすると聖書の読み方が変わり、少しずつ掘り下げて読めるのでみことばの理解が深まり身近なものとなります。漠然とそんなことをここ10年くらい考えていました。
でも自分たちこそ、純粋で、聖書に基づく、最も聖書的なキリスト教会、集会であると考えている人たちは多くの場合、話はかみ合いません。そして自分達と考えや立場が違う、信仰の在り方や生き方をしている人に対しては聖書的でないと言って正義感をもって裁き、あれは危険だからと言って秘密裡に切り捨てる。イエスの心と真逆な、これを私の言葉でいうとキリステ教と言います。

問題のない教会は世界中どこにもありませんが、私達も聖書が教える事とは程遠いキリステ教にならないように、この辺に心を留めて聖書が教える信仰の基本部分と私たちの信仰の生き方をもう一度考えてみたいと思います。そして間違っている所は謙虚に直していきたいと思っています。

今日学ぶ聖書箇所は使徒パウロの獄中書簡と呼ばれるエペソ人への手紙。ここから自分たちの信仰の在り方をもう一度確認して行きたいと思います。エペソは使徒パウロが第2次伝道旅行で2年以上かけて伝道した町です。やがてエペソ教会はアジア地方で有力な教会となって成長していきました。たびたび新約聖書にも出てきます。黙示録にも出てきます。この手紙の前半は教理的部分、4章から実践的な部分になります。今日は前半部分から自分の信仰の在り方を自分に適用して考えていければ幸です。1、救いは恵みと信仰による。2、救いを受けたらキリストの心で生きる。3、聖霊の力を受ける。

1、救いは恵みと信仰による。エペソ2:5・2:8
○救い:人生の根本問題である罪が神に赦され新しい命を受けること。救いを受けるとキリストの命が入りますので、人の生き方、考え方、人生観、価値観が少しずつ変ってきます。当然ですね。だって私の内にキリストが住んでおられるから。但し成長のスピードはみな違います。ある人はゆっくり、ある人は早く。全員に共通するのは一生かけて成長していてきます。

質問します。あなたの内にキリストの命が入っていますか?キリストが私の罪の為に死んで、葬られ、三日目によみがえられたと信じたら救われています。これを良い知らせ、福音と言います。福音を信じた人は恵みにより救いを受けていますのでご安心ください。もし5年たっても、10年たっても全く変わらない事が自他ともに認められるのであれば、洗礼を受けても救いは受けていないかもしれません。こういう人たまにいます。形だけでもいいから洗礼を受ければ後でわかるからとか。これはまずいですね。バプテスマ、洗礼とはキリストによる救いを受けた印として聖霊のバプテスマを受け新しくされた者が受けるものです。洗礼を受けたから救われる訳ではありません。キリスト信仰による救いの確認。これが第一歩ですね。

○恵み:5節:キリスト信仰を理解するうえでカギになる言葉です。恵みとは相応しくない者に与えられる神からの一方的なよいもの。私達は神のみ前に在ってよいものは何もありません。罪深い人間で罪赦された罪人にすぎません。しかしそのような罪深いものに対して創造主はいつも一方的に良いものを下さいます。8節:この恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物、贈り物、プレゼントだというのです。
こうして、私たちは恵みによって生かされているのだから固い、暗い、つまらない人生は捨てましょう。人を裁きまくるキリステ教は捨てましょう。明るく元気でのびのびと生きる人へと変えられましょう。だってイエスは恵み深く私達を包み込んで下さるお方ですから。それにならいましょう。

○信仰:8節:信仰によって救われた。これも重要な言葉です。信仰は信頼する、より頼むという意味です。信頼すると言ってもその信じる対象が間違いだと人生が狂います。オウムの麻原を信じた人たちは人生が狂ってしまいました。13人が死刑になり、今も多くの人が刑務所にいます。人を恐怖で縛るようなカルトは人を不幸にします。私達が信じる信仰の対象は。天地を創り、私たちを創り、私たちに命を与えてくれた創造主なる神、神の独り子イエスが神であることを信じるのです。
これを前提として福音(良い知らせ)を信じるのです(コリント第一15:1~4)。信仰を持って救いを受けた後、忘れてならないのは個人の自由意志を大切にすることです。この自由意志を忘れて、指導者たちが力で信徒を支配する関係が始まるとキリスト教もカルトになってしまいます。現にそのような教会が出始めています。

以上キリストによる救いは、恵みにより、信仰によって与えられるのです。エペソ2:9にあるよう、だれも誇る事が無い様に救いの為には行いは必要ありません。私達の良いわざは全く必要ないのです。イエスが私達の罪の為に死なれた事、葬られた事、三日目によみがえられた事を信じたら救われます。
この様に救いは神の恵みと信仰によるものである事を徹底してまいりましょう。ここがはっきりしないと次に続くクリスチャン生活がボーとしてしまい、チコちゃんに活を入れられてしまうのです。チコちゃんの話は別にしてもここがはっきりしていないクリスチャンはずっと尾を引いて確信が持てないまま20年30年過ぎてしまうのです。貴方は救いの確信がありますか。そしてみことばを理解して主に信頼して歩んでいるでしょうか。今日この辺を点検してまいりましょう。

2、救いを受けたらキリストの心で生きる。エペソ2:10
キリストの救いを受けるためには私達の良いわざや行いは全く必要ないことを学びました。恵みにより信仰によって人は救われるのです。ここまでいいですか。
この次から大切な点を述べます。救いを受けた後、今度はクリスチャンとして信仰と恵みに基づき進んで積極的に良いわざに励む必要があるのです。読み落としがちですがパウロ書簡では良いわざについて述べています(テトス、ガラテヤ)。旧約ではエレミヤ29:4~7節、バビロンに捕囚となったイスラエル人に対して万軍の主である神は語られます。(読む)旧約1296頁。普通の生活をして、その町の繁栄を求め、その為に主に祈れ、町の繁栄は自分の繁栄になるのだからと。
この地域の繁栄の為に祈り良いわざに生きる事が教会成長の鍵になります。ただ救われたままで良いわざがないと何も力のない信仰者で終わってしまいます。

私の経験では、自分が救いを受けた40年、50年前は良いわざに生きる事が大切であるという事は、はっきり教えられてこなかったと思います。むしろこの世は悪なので霊的、きよめを求めて生きるのが聖書だと教えられ、この世とはあまり関わらないように、そして霊的、信仰的な事を求めていくように教えられました。この教えの行きつくところで、私が体験したのは「クリスチャンって選挙に行くのですか」という質問です。これには驚きました。この世の中と分離する事が聖書的、霊的であるとする最たる誤解です。この点が日本のキリスト教会福音派の弱点だと個人的に思っています。
信じた後は、個人のきよめ、霊的、信仰的歩みの証が強調され、如何にしてキリストの心をもって隣人愛の実践や町の繁栄の為に生きるか、という視点がなかったのではないか。(断っておきますが私の経験の範囲内の話です。)だから私は、今、あらゆる機会をとらえて声を大にしてこれを言っているのです。ここが一番の大元なのですから。

少し考えてみて下さい。イエスはどう生きましたか?病の人がいれば癒し、食べ物が無くて動けない人がいれば食べ物を提供したでしょ。五千人以上も。口だけで大変だね、我慢してね、祈っていますと言いましたか?
又、弱さを持っている罪人にはその人の友となられたでしょ。取税人、罪人、遊女の中に入っていき彼らの友となられたでしょ。
悲しんでいる人がいれば共に悲しみ泣いたでしょ。一方ヘロデやパリサイ人の悪とは毅然として戦ったでしょ。
いつも弱い立場の人を顧みながら悪の力に対して戦うのがイエスの生き方でした。
私達に必要なのはここです。祈っていますというだけではないのです。綺麗事でお高く留まっているのではなく、キリストの心をもって、社会に打って出ていく。これがキリスト者本来の生き方だと思うのです。今この点が私達日本のキリスト教会に問われていると思うのです。日本のキリスト教会の多くが力を失っているのは、具体的にキリストの心をもって生きる事を忘れてしまっている、いや教えられてこなかったと思うのです。
同時にユダヤ的視点での聖書理解が足りない事だと思います。ユダヤ人が書いたのだからユダヤ的視点で読むのは当然のことです。私自身大いに反省しています。

3、力の源は聖霊 エペソ1:13~14
では私達の聖書理解、隣人愛、行動力の力の源はどこにあるのでしょうか。
私達はイエス様を救い主と信じた瞬間に、救いの印としての聖霊を受けました(13節)。聖霊が私達の内に住まわれる事を内住すると言います。そして内住した聖霊は私たちから離れる事がありません。
この方の性質は神の第三位格で、キリストと全く同じお方です。但し霊ですから人の目で見ることは出来ません。私と同じように控えめです。聖霊は別名。御霊。助け主と呼ばれていて、私達にイエスの心を教えてくれますし、聖書のみことばの理解を深める力を下さいます。そして弱い私達を助け、励まし、慰め、導いてくれます。
この聖霊様が働きやすい様に主イエスに従順する心を持つことが大切です。罪を犯したら、悔い改め神との正常な関係を作っていく。そうすると聖霊は私達の内で自由に働かれ、聖霊に満たされる事が出来ます。聖霊に満たされると聖霊の力によってイエスの御業が進められます。そして最終的には自分に栄光が帰されるのではなく、14節の最後にあるように神の栄光、素晴らしさが、ほめたたえられるようになるのです。これが我が内に住まわれる御霊、聖霊、助け主の働きです。

3つの確認と適用。
1、救いは恵みと信仰によるもの。
救いは神の一方的な恵みのわざ。私達のわざが入り込む余地がない。
2、救いを受けた後は良いわざと町の繁栄の為に祈り行動するのがキリスト者である。
⇒但し自分の力で頑張る。いわゆる頑張り信仰は捨てましょう。これは聖書の信仰ではない。
3、生きる力の源は聖霊の力によります。
⇒生活や祈りの中で聖霊を歓迎し、聖霊の力により頼みます。御霊に導かれて祈り、行動する。結果は自分の誉れではなく、神に栄光を帰す。
結び
以上ですが、今こそ私達は聖書が教える信仰の在り方を今こそ再確認していく時です。そして先輩たちから受け継いできた良い面は大切にしながら、もう一度聖書が何と言っているかを確認してまいりましょう。その為には文脈を大切にして字義通りに聖書を読むことが大切です。そしてみ言葉を理解したら従って実践しましょう。良いわざに行きましょう。枝葉的な事は時代と共に柔軟に変えていきましょう。
そして私達は何よりもキリストにあって一つ体だという視点もって交流しましょう。
エペソ3章6節が根拠です。
いつもこの視点でキリストにあって互いに助け合い、支え合い、祈り合い、それぞれが賜物を発揮してこの社会に打って出ようではありませんか。アーメンでしょうか。祈