喜びなさい 

2022年12月22日

2018年7月22日
参照聖句:ヨハネ20:11~18
説教題:喜びなさい 

おはようございます。今日の宣教題は「喜べ」です。前回の流れを確認しますと、イエス様は金曜日午前9時から午後3時まで十字架上で苦しみ、息を引き取られました。その日の内に墓に納められ、翌日土曜日ローマ兵により墓石が封印され番兵によって厳重に守られていました。しかしこの時イエスはよみに下って、捕らわれの霊どもに対し、ご自身のみわざを宣言されました。週の初めの日の朝まだ暗いうちにマグダラのマリヤがイエスの墓に来たら、封印が破られ、取りのけてありました。そしてみ使いたちを通してイエスの復活を知らされました。でもまだこの時点では誰も復活の主イエスと直接会っていません。
ここまでが先週の話でした。よろしいですか。今日はこの続きで復活のイエスが初めて姿を表すところです。聖書箇所はヨハネ20:11~18節です。

11:ここは夜明け前に香料をもってイエスの墓の所に来たマグダラのマリヤの様子が見て取れます。彼女は暗いうちに来ましたが墓の中が空なので、イエスの体が盗まれたと思い、急いでペテロたちのところに行って報告しました。そしてペテロたちが帰った後も、彼女は墓の所で泣いているという場面であります。泣きながら墓の中を覗き込んでいました。マグダラのマリヤの心は、まだイエス様が何者かに盗まれた、それ故いなくなったという思いでした。マリヤは深い悲しみの心と、喪失感の中にあったのです。

12~13:するとイエスの体が置かれていたところに二人のみ使いがいて、マリヤに話しかけます。「何故泣いているのですか」答えは「誰かが私の主を取っていきました。どこに置いたのか、私にはわからないのです」マリヤはみ使いだとも知らずに受け答えをしているようです。未だマリヤの心の中はイエスの体は盗まれたという思いで一杯です。

14~15:ふと後ろに人の気配を感じたマリヤは後ろを振り向きます。今迄お墓の中を見ていたのですが、今度は即座に外を見て振り向きます。ついにそこには復活の栄光の体を持ったイエス様が立っていました。ここで、おお主よ、あなたは、やっぱりよみがえられたのですね。という劇的な再会かと思いたいところですが、そうはいきませんでした。マリヤの心には、まだイエスの復活という認識はないのです。悲しみや喪失感だけが心を支配していたのです。
イエスは何故泣いているのか。誰を捜しているのか。とマリヤに問いかけますが、イエスの声を聞いてもまだ園の管理人だと思っています。その証拠にマリヤは「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。私が引き取ります」とまで言っています。

16~18:イエスはついに彼女の名前を呼びました。「マリヤ」この声、言葉、聞きなれた呼び方を聞いて初めてマリヤは、今、目の前にいるお方がイエスだとわかったのです。彼女はヘブル語で即座に反応します。「ラボニ」、即ち先生と言って足元にすがり付こうとしたのです。しかしイエスはそれを許さず、私の兄弟たちのところに行きなさいと命じます。私の兄弟たちとはキリストの使徒たちの事です。こうしてマリヤは使徒達のところに行きイエスの復活を伝えるという役割が与えられました。マリヤはイエスの復活後、最初に出会った人として、又その目撃者として、広くイエスの復活を伝える証人となりました。悲しみと絶望、喪失感の中から180度転換し、復活の喜びを伝える人へと変えられました。何という大きな人生の変化でありましょうか。
マリヤは喜んでイエス復活を使徒たちに話しますが使徒達はまともに聞こうとしません。ばかげた、ふざけた話という受け止め方しかしませんでした。悲しいかなこれが当時のユダヤ社会の現実だったのです。女性の証言が受け入れられなかったのです。ここまでが復活のイエスが現れた最初の聖書箇所であります。次に2回目です。
○マタイ28:9~10
復活のイエスが2回目にご自身を現わされたところがこの箇所です。ここはマグダラのマリヤとは別のマリヤ達にご自身を現わされたところです。ここも、女性たちが空の墓の話を使徒たちに伝えに行った後の事が書かれています。場所はどこか分かりませんが、同じように朝早く女性たちに対して復活のイエス様がご自身を現わしました。「おはよう」すると彼女たちはイエスに近づき足を抱いてイエスを拝んだと有ります。イエス様は「おはよう」いう訳を採用していますが、ギリシャ語は「喜ぶ」と訳せる意味もあります。しかも命令形になっています。そうすると喜べという意味になります。イエスの復活の場面ですので「おはよう」よりは、むしろ「喜ぶ」rejoice、命令形なので喜べの方がイエスの意志が伝わってくる感じがします。続けてイエス様はマリヤ達に恐れてはいけない、使徒たちにガリラヤに行くように役割を与えています。

疑問:何故復活のイエスは使徒達に最初にご自身を現わさなかったのか?何故マグダラのマリヤに最初に現れ、続いて他のマリヤ達に現れたのか?いかがでしょうか。それはやはり使徒達はユダヤ人を恐れていた。しかし女性たちはイエスを愛し、従う思いで満ちていた。この辺の違いでしょうか。マグダラのマリヤは心からイエスを慕っていたのです。イエスから多くの罪が赦されていたので多く愛した人です。イエス様は彼女たちの献身的な愛と信仰に答えたのではないでしょうか。またイエスの復活が歴史の事実である事を証明するため、あえて婦人の証言を用いた面もあります。

私達への適用
あなたは喜んで生きていますか?
イエスは復活したときマリヤ達に「喜べ」と促してくださったのです。
イエスの復活こそ私達の罪の身代わりとしてイエスの十字架の御業が正しかったことを神は証明しました。それ故イエスが私達の罪の為に死なれた事、葬られた事、甦られたことを信じるだけで、目に見えませんが、イエスとつながり、イエスの復活の命を受けるのです。これを救われるとか、救いを受けると言います。
この復活の命を受けた人に対してイエスは「喜べ」と言って下さるのです。そうです。何があっても、どんな状態になっても、変わることのない、喜びを受けるのがキリストの救いです。
あなたはイエスからくる喜びを受けていますか?もし受けているならばもっと笑顔で。そしてこの喜びを、生き方や言葉を通して人に分け与えるような歩みをさせていただきましょう。

結び
マグダラのマリヤはイエス復活の最初の目撃者として良い知らせ、福音を伝える事が使命となりました。私達はイエスの復活をこの目で見てはいませんが、使徒たちの証言である聖書の言葉を通してイエスの復活を信じて救いを受けました。そして良いわざや生活そのもの、また言葉を通してイエスを証する使命を受けています。私達は自分の人生あと何年生かされるかは誰もわかりません。しかしイエスが「喜べ」と命じたこの喜びは確かで変わらないものです。このイエスからくる喜びを受けている確信を深めながら今週も歩んでまいりましょう。