イエスの埋葬 封印された墓 

2022年12月22日

2018年7月1日
参照聖句:マタイ27:61~28:1
説教題:イエスの埋葬 封印された墓 

おはようございます。今日も皆様と共に主に礼拝をお捧げ出来る事を感謝します。今日はイエスの埋葬、封印された墓という題で学んでいきます。前回マルコの福音書15章からイエスの埋葬について考え、アリマタヤのヨセフの勇気ある行動を通してイエスの埋葬が行われる事になりました。この時彼の信仰は数段成長しています。またこの時に勇気ある行動をした人がもう一人います。誰でしょうか?ペテロ?ヨハネ?ニコデモです。彼はユダヤの指導者でありますが、かつてイエス様の所にこっそり訪ねて質問をした人であります。でも今、彼はヨセフと同じく昼間堂々とイエスの埋葬を手伝っています。彼もまたこの時点で信仰者として成長しています。こうして通常はあり得ない事ですが埋葬が行われたのです。今日は前回に続いてイエスの埋葬について考えてみます。そして復活の意味についても考えてまいりましょう。まず区分ですが、ここは3つに分けられます。金曜日61、土曜日(安息日)62~66、週の初めの日(今でいう日曜日)28:1。
①61:金曜日
イエス様は金曜日午後3時に十字架上で息を引き取りました。アリマタヤのヨセフやニコデモの勇気ある行動により、特別に埋葬が認められました。そして日没になると安息日、土曜日が始まりますので、人々は休みに入る為に行動が制限されます。ここに出てくる二人の女性、マグダラのマリヤ、クロパの妻マリヤは限られた時間ずっと、墓の方を向いて座っていました。彼女たちは忠実なイエスの信者でありました。どのような気持ちで座っていたのでしょうか。イエス様が十字架上で救いの御業を達成したので満足感で一杯だったのでしょうか?そうではありませんね。彼女たちはこの時点では、まだイエスの復活は考えてもいない事ですので、悲しみと絶望の中で墓の番をしていたのです。彼女たちはまだ葬儀をしていませんでした。だからイエスの葬りの為に何したいという願いがあるのです。事実安息日が明けると日曜日の朝まだ暗いうちに、イエスの体に油を塗りに行こうと思い香料を買って墓に向かっています。この様に彼女たちは復活の主に出会うまでは深い悲しみの中でやりきれない思いをもって三日目の朝まで過ごすことになります。
②62~66安息日
次の日、すなわち備えの日の翌日とありますが、安息日、今でいう土曜日です。当時ユダヤの常識からすると安息日に仕事はできませんので、体を休め会堂で礼拝することが普通です。祭司長、パリサイ人達はユダヤの指導者でありますので当然体を休め礼拝していると思いきや、そうではありません。堂々と安息日に動き回っています。そしてピラトのところに集まり今後の策を練っているのです。そして要求までしているのです。
この様に実にユダヤ人指導者の敬虔さは見せかけです。民衆には安息日を押し付け自分達は上手にすり替えて自分に都合の良い様に考え生きていたのです。それ故イエス様は彼等の本質を見抜き偽善者どもと呼んでいました。
63:彼らはイエス様を「人をだます男」「悪霊付き」と呼んでいました。イエスの復活は信じていませんが、3日の後によみがえるという言葉は覚えていました。それ故3日間の間は厳重に墓の番をして欲しいと願ったのです。彼らが考えるようなことをイエスの弟子達もするのではないかという思いからです。イエスの遺体を盗み出し、イエスは死人の中から復活した、よみがえったと、民衆に言うのではないかと恐れたのです。この惑わしの方が民衆に悪影響を与えると思い彼らは恐れたのです。キリストの弟子達は恐れで一杯なのにこんな事はするはずがありません。でも指導者たちは悪人だから、自分たちがこのような事を平気で考えるから弟子達もやるにちがいないと思い込んでピラトに申し入れたのです。ピラトは彼らの要求を呑み番兵を出すことを約束しました。
パリサイ人や祭司長たちはピラトの許可を受けて、墓を厳重に石で封印して万全の体制を組みました。ロープをかけて封印をし、ローマの印が押されます。
でも彼らの行為は何とも皮肉な結果となります。このような厳重な墓の番と蓋を封印した事により逆にローマの権力がイエスの復活が事実であることを証明する事になっていくのです。
28:1週の初めの日
マグダラのマリヤ、クロパの妻マリヤは待ちきれません。今でいうところの日曜日の朝早く、まだ暗いうちに墓まできて、埋葬したいと考えていたのです。それ故彼女たちはイエスの体に塗る香料を持っています。当然この時点ではイエス様の復活についての全く考えは持ち合わせていませんでした。彼女たちの様子を見ると、せめて香料を塗って差し上げたいというイエスに対する愛で満ちている事が伝わってきます。ここまでが今日の宣教箇所です。
ここで皆さんに質問があります。一体イエス様は金曜日から日曜日まで何をしていたか。空白の三日、これは72時間ではなく足掛け三日。埋葬から復活までの間です。墓の中で亜麻布にまかれたままでしょうか?如何ですか?そうです。イエスは神の力によって復活し栄光の体に変えられ、よみに下り、勝利の宣言をされたのです。私達は使徒信条で「死んで葬られ、よみに下り」と信仰告白しますね。ではこれは聖書のどこに根拠が示されているのか。

Ⅰペテロ3:18~19が参考になります。よみに下り、よみ・ハデス・シェオルとも言います。皆同じ意味です。苦しみの場所ですね。よみにいる捕らわれの霊、霊ですからこれは人間ではなく、文脈ではノアの時代に従わなかった悪霊どものことです。この者どもはよみにいます。イエス様は、死んで、埋葬された後に、復活し、よみに下り、捕らわれの霊、即ち悪霊どもに対して十字架の御業による勝利の宣言をされました。18節は十字架の意味が分かりやすく書かれています。
19節は良く誤解して語られやすいところです。ここから死後にも救われるチャンスがあるのだと話す人がいます。これをセカンドチャンスと言います。これは間違いです。この話に乗らないでください。救いのチャンスは生きている時だけです。故に今福音を伝える必要があります。語られたという訳は、福音宣教をしたという意味ではなく、「宣言した」ということです。新改訳2017の聖書をお持ちの方はいますか。宣言になっているでしょう。この訳の方が正確です。
適用
われらの主は生きておられる。
イエスの復活は弟子たちがイエスの体を盗んで復活したと嘘を言いふらしたのではありません。あるいは弟子達の復活を思う信仰が復活なのだということでもありません。またイエスは仮死状態だったのであって実は最初から死んでいなかったということでもありません。
実にイエスは十字架上で、私達の罪の身代わりとなって死にました。そして救いのみわざを完了したのです。私の罪の負債、罪の結果から来る死の代価をイエス様が代わりに払ってくれたのです。

主は十字架上で「完了した」という言い、わが霊を御手に委ねますと叫び息を引き取られたのです。そして墓に葬られました。しかし、神の力によって復活し、栄光の体に変えられたのです。
われらの信じるイエスは死んで、甦り、よみに下り、十字架の救いのみわざを宣言し、栄光の体をもって石の封印を打つ破ったお方です。そうです。われらの主は今も生きておられるのです。この後も生きるのです。私達は今も生きておられるお方を信じているのです。何と確かな信仰でしょうか。そして主の恵みと信仰によって私達にも新しい命が与えられているのです。
結び
今週一週間、石の封印を打ち破って甦られ、今も生きておられる主を見上げて歩んでまいりましょう。そして主イエスの御心は何かをいつも考え、愛のわざ、良い業を実践してまいりましょう。