十字架上のイエス③

2022年12月22日

2018年6月3日
参照聖句:マタイ27:45~50
説教題:十字架上のイエス③

おはようございます。今日は十字架上のイエスというテーマで3回目になります。理解を深める為に十字架刑に関する大まかな前提を確認してまいりましょう。まず十字架につけられたのは何曜日か。金。時間帯は。朝9時から午後の3時まで。実に6時間。午前3時間、午後の3時間。
最後にイエス様はあの苦しい十字架の上で何回か意味のある言葉を話しています。何回でしょうか。そうです7回です。午前中に3回。イエス様は敵対するものに向かいとりなしの祈りを捧げた。①「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか、わからないのです」
②十字架につけられた極悪人の一人に対して「今日あなたは私と共にパラダイスにいる」
③「女の方。そこにあなたの息子がいます。ヨハネに対しては「そこにあなたの母がいます」イエス様は苦しみの中で3時間耐え忍びました。ここまでが午前の話です。今日の話は後半の3時間になります。

1、45:暗闇が3時間続く
これは何か。ルカ23:45に、太陽は光を失っていたと有りますので、ここは文字通り日食と考えるべきでしょう。この暗闇が3時間続いたのです。ギリシャ人歴史家フロゲオンという人物の記録によると、昼12時から空は星が輝く夜に変ったという記録があるようです。
○暗闇は何を意味するか。
①旧約聖書で出エジプト記10:22神の裁き。3日間の真っ暗闇。
②メシヤであるイエスの上に神の怒りが注がれている。
③イスラエルの民へのしるし。光なる方を拒否したために神によって彼らは盲目とされた。

2、46~49 イエスの4番目の言葉
3時頃イエスは大声で叫ばれたと有ります。これから分かる事は実に4番の言葉か発せられるまで3時間の沈黙が続いたという事です。しかも真っ暗闇の中でこの沈黙が続いたのです。皆さんもタイムスリップしてその場にいたらどうでしょうか。神の怒りが注がれている状態です。怖い感じがしますか。
その時に午後3時ごろ突然イエスは大声で叫ばれたのです。エリ、エリ、レマ、サバクタニ、これはヘブル語でわが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですかという叫びです。
ここで不思議な事は今までイエス様は一度も神とは呼びませんでした。常に「父よ」です。
でもこれは詩篇22:1のメシヤ預言の言葉をメシヤであるイエス様ご自身が語られたのです。
当然ユダヤ人であれば直ぐに気が付くはずです。これって詩篇22篇だよね。
でも彼らは49節にあるように発音がエリというのはエリヤの短縮形なのでエリヤが助けに来るか見る事にしようと言い、ここでも意味が通じませんでした。霊的に暗闇であったら本質が分からない。しかし十字架上のイエスの祈りは父なる神によって聞かれているのです。詩篇22篇でも最後は神への賛美に変るのです。

詩篇22:1のことば 絶望の言葉ではない。神に助けを求める言葉である。それ故、神に見捨てられたのだからイエスの十字架は失敗であったという考えは、聖書と違います。ここはイエス様は神の怒りの杯を飲んでいるのです。それは霊的死であり、神との断絶です。イエスの人間としての霊は父から切り離されます。罪のないお方が身代わりとなって人の罪を全部受けられたのです。
神は罪を知らない方を罪とされたのです。それは私達がこの方にあって神の義となる為です。Ⅱコリント5:21。実にイエスの死は私達の罪の身代わりであるのです。

3、第5の言葉 ヨハネ19:28
いつもは人々に乾くことのない生ける水を提供しているお方が今回は十字架の上で渇く存在となった。ここを理解するうえで参考になるのはルカ16:22~24.金持ちとラザロの実話です。
イエス様は罪人が受ける神の怒りを受けている。死んだあの金持ちは喉が渇いて苦しくてアブラハムに叫びますが、渇きをいやす水は与えられませんでした。この苦しみと渇きをイエス様は罪人として受けているのです。それが「私は渇く」という言葉となりました。

適用
今日はイエスの十字架上における7つの言葉の内、4番目と5番目を見てまいりました。十字架に磔にされて実に6時間後の3時頃に発せられた言葉です。実に異様な暗闇の中で3時間の沈黙の後にイエス様は残りの言葉を発せられたのです。ここから何を適用できるか。
○罪人の身代わりの言葉
十字架上のイエス様は実に激しい痛みや渇きがありました。最初の3時間から暗闇、沈黙と続く後半の3時間と実に意味深い6時間であります。イエスの十字架刑は全人類の罪の身代わりであると共に私の罪の身代わりでもあります。
しかし身代わりの死であっても自動的に救いが来るわけではありません。何が必要か。そうです。イエス様が与えて下さる救いを受けには信仰が必要です。イエスは救い主ですと信じて、人格的な生きた交わりをする。それが生きた信仰であり、確実に救いを受ける事になります。

結び
十字架のみわざによって救いを受けた私達はどのように生きるか。もう一度イエスの恵み深い十字架上の愛を覚えてまいりましょう。そして何をするにも神に喜ばれる事は何かを覚えながら感謝して歩んでまいりましょう。