朽ちないものによみがえり

2022年12月22日

2016年3月27日
参照聖句:Ⅰコリント15:50~58
説教題:朽ちないものによみがえり

今年は今日がキリストの復活をお祝いするイースターになります。キリスト教会では毎年イースターを覚えてお祝いしています。受付で卵のプレゼントをもらいましたか。先週も質問しましたが何故イースターに卵が出てくるのでしょうか。・・・卵の殻を割って出てくる生き物は何でしょうか。そうです。ひよこです。新しい命の誕生ですね。卵は殻を打ち破った復活の命をたとえています。卵はゆでてありますので、ひよこは出てきませんが是非復活のイエス様を覚えて下さい。
私たち一人一人の罪の身代わりとなって字架上で死なれたイエス様は墓に葬られ、よみに下り、三日目に死人の中から栄光の体で甦りました。今も私たちと共にいます。因みにイースターは春分の日の次の満月の次の日曜日と決まっていますので年によって日にちが変わります。

さて今日の宣教はイースターにちなんで「朽ちないものによみがえり」と言う題で話します。キリストの復活は歴史上の事実として起こりました。ご存じのようにキリストは罪のない方でしたが、私たちの罪の身代わりとなって十字架上で神の刑罰を受けました。その御業が正しいことが証明されるために、キリストは死人の内より甦られたのです。しかもこの復活はキリストの教えの精神が復活したのではなく、栄光の体をもって甦りました。死なない体の事です。キリストの十字架の死を私の罪の為であったと信じキリストの復活を信じるならばあなたは救いを受けます。聖霊が住まわれ新しい命を受けてあなたの人生が変わります。これは信仰による救いの結果です。

この聖書箇所からキリスト者の永遠の命について2つのパターンを紹介します。
1、キリストを信じて死んだ人はどうなるか
15:12~13
ここにはキリストが死から甦られたのはキリストを信じている人が死んだ場合、その人は朽ちない体をもって復活する為にあったという前提をまず確認します。別の言葉でいうとキリストを救い主と信じて聖霊を受けた人は死んでも朽ちない体をもって復活するためにキリストは死んで甦られたという事です。
15:50
 使徒パウロはコリント教会の兄弟姉妹たちに血肉の体は神の国を相続できないと改めて述べています。血肉の体とは私たちが生まれつき持って生まれた体の事です。この体は年を取ればやがて死に絶えます。日本人の平均寿命は女性86.83歳、男性80.5歳ですが誰でも死にます。

聖書によると、この体のままでは神の国(キリストが支配する場所)には移れません。朽ち果てる体、肉体は、朽ちない、無くならないものを相続することは出来ないのです。因みに神の国の別名はパラダイスです。思い出してください。イエス様が十字架上で犯罪人の一人に「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と言われたあのパラダイス、神の祝福に満ちた場所の事です。イエスの救いを受けているあなたも死んだ瞬間に、栄光の体に変えられてパラダイス、祝福の場所に移されますから安心してください。そこは悩み苦しみがありません。勿論、3月の花粉症で鼻が詰まって悩むこともありません。

ゆえに皆さんは今日から漠然と死んだら天国に行くのだと言う、あいまいな考え方は聖書の教えることではないので捨て去って、朽ちない体を取りパラダイス、祝福の場所に移される確信を持ってください。そしてこの場所こそイエスの再臨後、最終的には新天新地と呼ばれるところです。
昔も今も本庄教会を通してキリストの真の救いを受け人は一人残らず、朽ち果てない体でイエス様のもとにいっていますのでご安心ください。

2、キリストの再臨(再び来られる事)の時に生きている信者はどうなるか 52
聞きなさい。ここで使徒パウロは大切な事を言うので良く聞きなさいと述べています。奥義を告げます。奥義とは昔隠されていたことが今明らかにされる真理のことです。神の隠された計画、秘密の真理が今表された事です。この奥義はパウロにだけ与えられたものです。これを知らせるからよく聞いてねと言う訳です。
キリストはやがて世界の裁き主として、またキリスト者の救いの完成の為にラッパの響きと共にこの世界に戻ってきます。再臨は先月の聖餐式からまた1ヶ月近くなりました。但しこの時は誰にも分りません。終わりのラッパの音が鳴り響くときに、死者は朽ちない者によみがえり(キリストの再臨以前に亡くなった人に対して)の事を強調して述べていると思います。
特にこの箇所はキリストの再臨の時に生きている人に対しても適用されることです。即ち私たちは変えられるのですとは、キリストの再臨の時に、たちまちの内に(アトム)切っても切れない小さな時間、moment、一瞬の内に(まばたきの間に)栄光の体に変えられるのだとパウロは言います。これは聖書でパウロ以前は示されていない真理でしたので、パウロは奥義だと言っているのです。

53~56迄、朽ちるものは朽ちないものに変えられる事、パウロは私たちの死はキリストの命の前に勝利に飲み込まれたと高らかに宣言しています。

もしも仮に私たちが生きている間に主イエスの再臨があった時には生きたまま栄光の体に変えられるという事になります。死を見ないで天に上げられるのです。旧約聖書を見ると死なないで天に上げられた人が二人います。エノクとエリヤですね。これは死なないで天に上げられる雛型ですね。

適用 キリスト者の生き方を考えよう
私たちの体は年々衰えていき、地上の生涯を終える時は、朽ちない栄光の体に変えられる希望があります。ですから信仰者として少しでもキリストに性格が似た信徒とされて生きましょう。
また、私たちが生きている間にキリストの再臨があるかもしれません。そうしたら死を見ないで即栄光の体に変えられて主とお会いする事になります。その時に備えていつイエス様が今日来られても良い様に信仰の歩みを整えさせていただきましょう。
どちらにしても誠実に主イエスを見上げてその日その日を精一杯生かされてまいりましょう。

結論 57~58節 主の業に励もう
キリストの復活の命は人の死を打ち破りました。これを信じるものはたとえ死んでも生きるのです。だから信仰に固く立って、間違った変な教えに動かされることなく(動揺することなく)主イエス・キリストの御心に沿った愛の業に生きようではありませんか。
救いを受けるために善行を積むのではありません。救われたから主にある愛の業に励むのです。
これがキリストの救いを受けた人の共通した生き方です。
そして私たちが行う日々の労苦は主にあって無駄なことは何一つないのです。
お祈り致しましょう。