使徒信条③

2022年12月22日

2016年3月6日
参照聖句:ヨハネ14:9
説教題:使徒信条③ 

2011年3月11日から間もなく5年がたちます。あの大震災の事をもう一度思い出し自分たちの生活の中で備える必要があります。自分たちの地域で大きな災害が発生した場合に自分たちはどのように対応するか、また本庄キリスト教会は神の家族としてこの地域で何が出来るのか、またできないのかを考えて備える必要があります。

また5年前の震災で大きな被害を受けた主に東北3県福島、宮城県、岩手県の皆さんの中には未だに以前の生活を取り戻していない方々が多くいます。希望を失い自ら死を選ぶ人も多くいます。幸い私たちの本庄教会では被災地の商品購入や石巻祈りの家教会を通して様々な交流がありますので感謝であります。先月は教会員の方がネギと大和芋を15キロ献品してくださいましたので生活支援ネットワークを通して宮城県南三陸町戸倉地区波伝谷の三浦さき子さんに送りました。この方を通して地域の方々に本庄の特産品であるネギと大和芋を食べていただきました。大変喜んでくださりお電話をいただきました。こうして今もつながりがある事は大切です。これからもつながりを大切にして交流を深めていきたいと願っています。また昨日も生活支援ネットワークの方からネギの献品がありましたので大和芋と一緒に15キロにして石巻祈りの家の阿部さんの所に送らせていただきました。常に本庄教会の業として続けていければ幸です。皆さんも続けてお祈り下さい。

さて使徒信条第3回目の学びになります。
使徒信条は第一に三位一体の神への信仰告白、その中心はイエス・キリストについてです。使徒たちがつくったものではありませんが、使徒たちが教えた内容が要約されていますので、使徒信条と呼ばれています。洗礼式の時に用いられ、異端の教えから守るためにも重要な信条です。信じるという言葉が4回出てきますがこの信じるという意味は、ただ単に知的な理解ではなく、父なる神及び御子イエス・キリストとの生きた人格的な交わりを通して信頼することです。

今日はいよいよ「父なる神を信じます」という本論に入ります。①イエス・キリスト②父なる神とは、③人格を持った神について、に焦点を絞って学んでいきます。

①神が人となられたお方がイエス・キリスト ヨハネ14:9
イエスを見た時に本物の神がどのようなお方であるかを知る事が出来ます。ですから常にイエス・キリストを通して神はどのようなお方であるかを見ていく事と信仰が横道にそれません。では父なる神とはどのような方でしょうか。具体的に見てまいりましょう。

②父なる神とは
聖書を読むと神の呼び名は沢山あります。比喩的、たとえでいうと、羊飼い、王、岩、父とか言います。これは例えですので限界がありますが神の本質を表している言葉です。その中で私たちが良く使う言葉に「父」と言う言い方がありますね。イエスが弟子たちに祈りを教えた時の言葉です。「天にいます、私たちの父よ、御名があがめられます様に」マタイ6:9

しかし、聖書の神には男性とか女性の性別はありません。人間と違ってこの世界をおつくりになった創造主ですから。もし性別があるとすれば造られたものとなってしまいますので真の神ではありません。それなのになぜ「父なる神様」と言うのでしょうか。あくまでも例えて父と呼んでいるわけです。聖書の神は「母なる神様」とは呼びませんが、女性をイメージして神を表している場合があります。

イザヤ49:5「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子を憐れまないだろうか。たとい女たちが忘れてもこの私は忘れない」これは女性の、母親の愛、優しさを示しています。
詩篇51:1「神よ、み恵み(ヘセド:契約に対してどこまでも忠実である神)によって私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私の背きの罪をぬぐい去って下さい。」あわれみ:女性の胎、子宮を表す言葉から来ています。女性の子宮、胎で胎児、赤ちゃんを守っているイメージです。完璧な母親の守りを表している言葉であります。

このように聖書の神は父のように、時には母のような優しさをもって愛してくださるお方です。
でも「母なる神」と言う呼び方はありません。父なる神とか、羊飼い、岩、王とかいうたとえで呼んでいます。
何故神を父と(アバ)呼ぶのかを一つの考え方を紹介します。他にもあるかもしれませんが。
・古代中近東(今のイスラエルとかアラブ諸国)における父親の役割が、神の性質を表すのにちょうどよい言葉であった。
・母なる神というと当時の世界では多神教のイメージがあるので、神は聖書記者たちに父という言葉を啓示したのだと思います。
多神教、多産の神、五穀豊穣の神というと、聖書でバアル礼拝のアシュラ、アシュタロテという女性の神が出てきますし、エペソのアルテミス神殿の神も女性神です。この誤解や誤りを防ぐためにも父という言葉を用いたのではないかと思われます。

③人格を持った神
聖書の神は生きていて私たちとの交わりを求める人格を持ったお方です。人格という言葉も神に対しては限界があります。何故なら人格とは人に対して言う言葉だからです。でも分かりやすくするためにあえて人格という言葉を使わせていただきます。知識、感情、意志を有することを人格と言います。
聖書の神は霊的存在者ですから人間のように肉体、形はありません。真の神は霊的存在者としてご自身の感情や意志を持っています。そして全知、すべてをご存じであるお方です。このように人格を持つお方ですので私達人間との関わり、関係を大切にされます。私たちと交わりを持ちたがるお方です。
子の真実な神は契約を結び忠実に守って下さるお方です(ヘセド)の神です。
神は遠から隠れる様にして私達を冷たく見ていて監視、チェックしているお方ではなく、罪人である私たちに和解の手を差し伸べてくださる神です。第二コリント5:18~19
・和解の土台を提供してくださる
・これに対して私達は神の呼びかけに信仰によって方向転換し、応答して神との和解が成立します。
適用
○神との人格的な交わりを大切にしましょう  祈り、聖書のみことば、黙想
○イエスを見上げて、イエス様を通して神を見る習慣をつけましょう。  
暗唱聖句 第二コリント1:3 お祈りします。