
聖書箇所:マラキ書3章8~10節
説教題:聖書的献金について考えよう
おはようございます。3月の新しい週を迎え、主への礼拝を皆様と共に捧げる恵みを感謝します。ライブ配信で参加している兄弟姉妹の皆様、病気療養中のあなた、フィリピンやブラジルから参加しているあなたもおはようございます。あなたの礼拝参加をとても嬉しく思っています。
ライブ配信では本庄教会以外の方も含め40人前後の方がご参加くださりとても嬉しく思っております。これからもよろしくお願いします。
さて、旧約聖書のハガイ書が終わりまして、聖書の基本的な事の理解を深めるため、①教会とは何か、②バプテスマとは何かについて考えてきました。今日は3回目で献金について考えたいと思います。皆様、ご存じのようにキリスト教会は私達の献金で運営されています。献金多ければ、教会運営は安定し、地域貢献や生活に困っている人の為に用いることが出来ます。逆に献金が少ないと、会堂維持と人件費だけで精一杯となり、他にはほとんどお金が使えない状態が続いてしまいます。この様に献金は教会運営において非常に大切なものです。
キリスト教会では、今日の聖句から十分の一献金の奨励がありますが、マラキ書の十分の一の捧げ物とはどんな意味なのかを考えてまいりましょう。マラキはゼカリヤやハガイより後の紀元前400年代に活躍した預言者で、旧約聖書最後に登場する人物です。このころ第二神殿の再建工事は既に完了し、ネヘミヤたちによる城壁再建中、又は完成後の頃と思われます。
これからメシヤ誕生まで400年の間、神の啓示がない沈黙の時代が続きました。そして、いよいよバプテスマのヨハネ、イエス誕生と続き新約聖書時代に移っていきます。この時代はイエス誕生400年前の旧約聖書時代なので、イスラエルでは十分の一の捧げもの(税金)としてささげられました。この捧げものにより祭司や祭りの費用、助けを必要とする未亡人、孤児を支援するシステムが出来ていたにも関わらず当時の人は守っていなかったのです。
8:彼らがイスラエル社会の中で納めるべき税としての捧げもの(農作物)を納めていないという事です。これを納める事によりイスラエル社会が成り立っていたのに、彼らが十分の一制度の捧げ物をしていない為、「神の物を盗んでいる」とマラキは万軍の主の言葉として指摘したのです。
9:イスラエルの民が、税(捧げもの)を納めない事態が続いたので、国が機能しなくなっていたわけです。呪われているとまで神は宣告しています。このような社会に対し神は預言者マラキを送り、社会をただしているのです。※日本でも税金を納めない(脱税)する人が多くなればどうなりますか。国が機能しなくなり、貧しい人への手当てや社会福祉制度が崩れてしまうのです。
10:イスラエルの民に対し神は命じています。十分の一の捧げものを携えて神殿の倉に携えて納めよ。宝物倉とは神殿の中の小部屋で、レビ人や貧しい人、寄留者、女やもめを支援するために、十分の一の捧げもの(農産物)を保管する場所。こうしてわたしを試してみよ。実行すれば万軍の主なる神は、あなたがたに天の窓を開き、大いなる祝福を注ぐと、民に語り掛け、約束しているのです。この様に、この文脈は献金の事ではなく、民が収穫物(当時の税制度)をきちんと納め、社会全体がレビ人や弱い立場の人を守るべきことを強く警告しているのです。
※5節には、やもめやみなし子、寄留者を虐げる者に神は裁きを下すと宣言しています。
以上マラキ書が示しているのは十分の一献金の事を教えているのではなく、イスラエル社会の中で律法に基づく十分の一の奉納物が納める事の重要性を教え示しているのです。マラキは律法を守らない民を神の物を盗んでいると厳しく責めているのです。
では新約聖書が示す献金の在り方とはどのようなものでしょうか。献金は会費や牧師の説教に対するお礼とは違います。前提として、全地は主のものである(神の所有)。私たちは神のものを預かり、管理しているにすぎません。献金は神の恵みに対する感謝として、神にお返しする(ささげる)ものです。それ故、いくら献金するかは私達一人ひとりの信仰に任されています(ここが大切)。例えば、人が「あなたは裕福だからこの金額を献金しなさい」という事はあり得ません。それぞれ自発的に捧げられるものです。
コリント人への手紙第二9章7節、新約聖書366頁にありますように「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださるのです」エルサレムの聖徒たちを助けるという文脈の中の事。これが聖書の示す献金についての考え方です。※但し、あなたが、自ら進んで、収入の十分の一を目安として献金すると心に決めて実行するのは素晴らしいことです。(ここは誤解のないようにお願いします)
この様に「心で決めた通りにしなさい」と勧められていますが、では具体的に幾らが良いのかと言うと、十分の一という数字が旧約聖書のマラキ書にあるので、これを持ち出し、ある教会では十分の一献金が聖書的のように語られますが、先ほど学んだようにマラキ書は当時の税金システムによる社会秩序を守るよう警告している事なので、献金に適用するには無理があります。結論から言うとクリスチャンには、喜んで主に捧げる恵みの義務はありますが、律法による十分の一献金の義務はありません。ここは誤解のないようにお願いします。
今日の学びを通して、是非、献金の在り方を理解し、喜んで主にお捧げしましょう。十分の一を超えても良いし、十分の一でも良いし、十分の一以下でも良いのです。喜んで、心で決めた通りに、神のものを神にお返しすることが献金の在り方であることを理解して実行してください。そして献金は神の恵みであることを忘れないでください。
やがて本庄キリスト教会も献金が満たされ、社会的弱者の方の為にもっと使っていく教会に生まれ変わりたいと思います。幸いなことに本庄教会には「ちいろば」の皆様がコイノニヤ指定献金をささげてくれます。この献金は弱い立場の方に使われます。最近もホームレスの方に使われ立ち直るきっかけとなりました。是非皆様、もっともっとコイノニヤ基金に関心を持って下さり、献金してください。そして必要な方の為に用いられるようにいたしましょう。
●今日はここまでですが、皆さん如何でしたか。4つの事を考え書いてみましょう。
①今日の聖書箇所を通して神があなたに語り掛けていると思う事は何ですか。
②今日の聖書箇所を読んで何をどのように感じましたか。
③今日の聖書箇所を通してあなたが、今から実行に移せることは何ですか。
④今日の聖書箇所と関連した個所や聖句があったら教えてください。
