
2021年8月22日
聖書箇所:Ⅱコリント5:1~10
説教題:信仰によって生きよ(副題は主に喜ばれる歩みに生きよう
本庄キリスト教会の皆様おはようございます。またネット配信をご覧の皆様おはようございます。今朝も礼拝を捧げる恵みに預かり感謝します。ライブ配信奉仕もありがとうございます。
それでは聖書を開きましょう。前回の続き5章1節~10節「信仰によって生きよ。副題:主に喜ばれる歩み」です。いつものようにコリント人への手紙第二を理解するにあたり一言。パウロがコリント教会宛てに、第一の手紙を書いた後も、教会の状況が好転しないので、彼は涙ながらに次の手紙を書きました。(2章4節)。これは残っていません。
ところが、しばらくして、コリント教会の人たちが罪を悔改めたという嬉しい知らせがテトスから届き、パウロは喜びをもって手紙を書きました。それがこのコリント人への手紙第二です。慰めの手紙とも呼ばれ大きな励ましを受ける手紙です。そんなことを頭に入れながら読むと理解が深まります。
さて、先週は失望、落胆しない理由について考えました。覚えていますか?4つのポイントを。①私たちは壊れやすい土の器ですが、その器の中にこそ神の大きな恵みに満ちた力が溢れている。
②私たちの内に住まわれる聖霊によって、外なる人は衰えても内なる人は日々新しくされている。③天の御国の重い栄光に比べたら今の苦難は軽い
④見えるものは一時的なので過ぎ去るのが早い。それ故に見えない永遠の世界に目を止めよう。
以上4つを考えると、たとえ失望、落胆したとしても、また回復して元気にされます。これからも続けて私達に与えられている恵みを覚えてまいりましょう。
そこで特に4番目の、18節、見えるものにではなく、見えないものに目を留めるのです。見えるものは一時的であり、見えないものは、永遠に続くからです。私たちを迎えてくれる永遠につつく世界、これがどんなものか?次の1~5節に書かれています。見てまいりましょう。
1:地上の幕屋と言う言葉が出てきます。これは天幕の事で、そこには神の臨在があったことをモーセ五書から知ることが出来ます。今はキリストの救いを受けた人の内に聖霊が住んでくださいます。そんなことで、ここの幕屋は私たちの肉体、体を指しています。神が建てたものは、将来の私たちの住まいである新天新地ですね。よく天国とか天の御国と呼ばれるところです。これを私たちは知っています。皆さん知っていましたか?もちろん知っています。
2:私たちはこの体、即ち罪を持ったままの体は弱さがあります。それゆえ、自分に失望して、呻き、悲しむものですが、キリストの再臨の時に栄光の体に変えられます。勿論その前に主の御許に召されたその時、栄光の体に変えられます。永遠の世界です。だから希望があり、見えるものよりも、見えないものに心を留める必要があるのです。これは自分から向かっていくというよりも、むしろ主が備えて下さる。それを待ち望むことです。
3~4:この地上の生涯が終わっても、何もない状態でそのまま終わるのではなく、キリストの命に飲み込まれていく。天からの住まいを上に着るという表現を使っています。こういう世界が私たちに待っています。
5:この実現のために私たちに供えられたのが聖霊です。聖霊は私たちに未来を保証してくださいました。yesをメシヤと信じた人の中に全員、助け主として住んでくださっています。どんなに信仰が小さい人であってもイエスを信じたら誰でもその人の中に住んでくださいます。
即ち、神の前に罪人である事を認めイエスがわたしの罪のため、十字架に掛かって死に、葬られ、よみに下り、三日目に死人の内から甦りました。このキリストの福音を信じた人は救われます。そして信じたら誰でも聖霊を受ける。聖霊は死ぬまで共にいて、励まし、慰め、導いてくださいます。
6:ですからとありますので、ここが結論部分です。今肉体をもって生きていますが、それは主の御許にいるわけではありません。でもいのちの保証である聖霊が住んでくださっているので心強いのです。
7:今までの事を踏まえて、私たちは見えるものによらず、信仰によって見えない世界を生きて行くのです。この世界は神の用意して下さる世界ですから安心して生きることが出来る世界です。
8:私たちには確かな形で未来が、保証されているので心強いのですが、この地上が嫌にり早く死にたいということではなく、命に飲み込まれるゆえに主の御許に行きたいという願いです。
9:どちらにしても、このまま生かされているか、あるいは使命が終わって主の元に行くか、それぞれですが、パウロの願いは主に喜ばれること。これは私達も同じですね。どのように生きるか。それは主イエスに喜ばれる様な生き方を願う。今の自分の生き方をイエス様ならばどのように思うか。キリストの前に恥じない生き方、これを基準にして生きるのです。
10:ここは自分の人生が終わった時、主イエスの前にでて、行いに応じて報いを受けることが書かれています。これをキリストの裁きの座と言います。裁きと言っても黙示録20:11の、白き大きな裁きの座の事ではありません。(開いてみよう)ここは、キリストの再臨、千年王国の後にくる、大きな白い御座の裁きで罪人に対するものですので、クリスチャンは関係ありません。ここには出る必要なないので誤解のない様にお願いします。コリント書に在る裁きの座は信者それぞれが、自分が地上で生かされてきた間に成した生き方に対するもので主イエスから報いを受ける時です。これを裁きの座と言う言葉で述べています。やがて私達もここに立ちます。
適用
①この地上の生涯はそれぞれ使命があります。それはイエスのみこころを行いイエスに喜ばれることを目指すものです。何が使命かはそれぞれ違います。でもイエスに喜ばれる生き方と言う点では一致しています。9節の主に喜ばれることは何かを求めて歩んでまいりましょう。
②私たちが地上の生涯を終わる時、キリストによる命に飲み込まれます。私たちは朽ちない体に変えられます。これこそ大きな希望です。その時を覚えながら歩んでまいりましょう。4節、天からの住まいを上に着るという表現です。
結び
今週も主イエスを見上げ信仰によって歩んでまいりましょう。そして主に喜ばれる生き方はどのようなものかをもう一度考えて歩んでまいりましょう。
