
聖書箇所:マタイの福音書5章1~12節
幸いなるものよ
会場の皆様おはようございます。6月最初の主の日を迎え礼拝をささげる恵みを感謝します。又、ライブ配信参加の兄弟姉妹、北海道、神戸から参加している兄弟姉妹、病気療養中の兄弟姉妹、フィリピン、ブラジルから参加の兄弟姉妹もおはようございます。
今日も続けて、マタイの福音書から考えてまいりましょう。そして今日の聖書箇所を通して神があなたに何を語りかけているかを受け止め、ぜひ実行に移してください。最終的にはキリストの愛に生きることが私たちの目標です。尚、この礼拝メッセージは本庄キリスト教会ホームページhttp://honjochrist.churchに掲載されています。自動翻訳機能付きですので英語やポルトガル語、タガログ語訳でも読むことができます。是非ご利用ください。又、今までのメッセージ原稿もすべて掲載されていますのでご利用ください。
さて、聖書のことばを用いて悪魔の誘惑を退けたイエスは、ガリラヤ湖ほとりの町カペナウムで「悔い改めなさい、天の御国は近づいたから」と宣言し宣教を開始しました。あなたの人生の向きを変えよ、天の御国は既にあなたのうちに来ているから。(イエスが地上に来られた事によって既にあなたのうちに神の支配は始まっている)イエスは弟子作りと共に、人々に神の愛を語り、悪霊を追い出し、大勢の人の病を癒して愛を実践をしたのです。それが前回まで。
今日は5章1節~12節ですが、有名な山上の説教(垂訓)と呼ばれている箇所で、7章迄続く長い説教です。神の子イエスが地上に来られた事により旧約聖書のメッセージを、新しい契約に基づいて解き明かしています。突然出てきた話ではなく旧約聖書とつながっています。私たちが神に支配されて生きる本質を解き明かしているのがこの山上の説教なのであります。
1:前回の続き。イエスの周りにはイエスによって癒された大勢の群衆がいます。ここでは「山に登って」とありますので、大切な神のことばを語る場所が設定されているという意味です。又イエスは立って説教するのではなく「腰を下ろされた」ただ単に座るだけではなく、主の家にとどまり、住むという、親しい交わりの意味があるとのことです。
そこにキリストの弟子たちがやってきました。弟子は、不完全ながらも主に従う人々の集まりです。※そういう意味では私たちもイエスを救い主と信じた者なので同じキリストの弟子ということになります。それ故、山上の説教は私たちに対しても語られていることばです。
2:イエスは神の民の生き方をご自身のところに来た「弟子たちに教え始められた」神を中心にして生きることを語られました。旧約聖書で掲示されている、新しい契約に基づいて解き明かしされました。イエスは、「口を開き」神のみことばを常に心にとどめて覚え、反芻し、あふれ流れるように弟子たちに教えたのです。
3:ここからイエスは有名な8つの幸いについて述べています。最初の4つは神との関係からの視点、後半の4つは隣人との関係における視点から。今日は前半の2つになります。
さて、一般的に考えてみて、真に幸いな人とはどういう人の事でしょうか。健康である。経済力がある。老後の心配がない。家族が皆仲良く穏やかである。これらはとても素晴らしい幸せ観であります。でもここでイエスが言う幸いは、置かれた状況や外面的な状態は一切関係なく、神の恵みと救いの命の喜びに満足している(あふれている)状態が幸いだと言っています。※私たちは何をやってもうまくいかない場合があります。でも幸いだということがありうるのです。
それではイエスが言う「幸いな人」とはどんな人かを見てまいりましょう。◉心の貧しい者は幸いです。心が貧しいとは、人との比較ではなく、神の前の生き方をイエスは語っていいます。またここでいう心はより正確には私たちの霊の事です。神とのかかわる霊の部分です。
神は人を土のチリから人を創られました。そして神の息吹(霊)を注がれて生きるものとなり、本来人は創造主により頼んで生きるものとして創られました。しかし、アダムの罪の性質を受け継いだ私たちは、神の前に出て心を照らして見ると、自分の弱さ、罪深さ、心が全く貧しいものであることに気が付きます。神の前に良いものがない、力も、知恵もない自分に気づきます。それが心の貧しい人なのです。これに気づいて、認めて神の前に生きようとする人こそが真に幸いな人なのでというのです。
では具体的に心の貧しさを発見する方法は何でしょうか。それはイエスご自身の生き方、真の姿を知ると明確になります。イエスの正しさ、イエスの語られた言葉、真に人を愛する生き方、人の「しもべ」として仕えたイエスの生き方、徹底して人の命を大切にしたイエスの生き方、弱い人たちを愛したイエスの生き方、そして最後には十字架の身代わりの死と復活の御業。このイエスというお方に触れる時、聖霊の働きによって、私たちは圧倒的に自分が罪み深い者、心の貧しい者であることを知るのです。
キリストに支配された者としての生き方。天の御国はそのような心の貧しい人たちのものなのです。私も神の前に全く心の貧しいものです。でも、そのような者こそ真に幸いな人であり、キリストにふさわしい者であり、神の恵みあふれる生涯を送れるとイエスは言うのです。
◉次に悲しむ人は幸いだとイエスは言います。なぜ悲しいのに幸いなのか?
実は8つの幸いはつながっています。まず、心の貧しいものには悲しみが与えられます。同じように私たちも自分を神の前に照らして見た時、罪深さに失望し悲しみを覚えます。又、世の中の様々な悲しい出来事や事件を見るたびに人が犯す罪に対して深い悲しみや怒りを覚えます。
しかし、この悲しみは、ずっと悲しいまま続くことはありません。やがて神から豊かな慰めを受ける。それ故悲しむものは幸いなのです。
これがうらやましいほど幸いなことの神の論理です。あなたが考える幸福観とは違いがあるかもしれません。もう一度イエスの言葉から自分の心の貧しさや悲しむことを考えよう。
◉今日のメッセージから次の4つの事を考え書いてみましょう。
① 今日の聖書箇所を通して神があなたに語り掛けていると思う事は何ですか。
② 今日の聖書箇所を読んで何をどのように感じましたか。
③ 今日の聖書箇所を通してあなたが、今から実行に移せることは何ですか。
④ 今日の聖書箇所と関連した個所や聖句があったら教えてください。
