コリント人への手紙第一(54)

2024年11月24日
聖書箇所:Ⅰコリント11:17~34
説教題:聖書的教会形成を目指そう      

おはようございます。11月第4週を迎え、主への礼拝をお捧げしてから一週間過ごせることを感謝します。ライブ配信を通して礼拝参加している本庄教会や本庄教会以外の兄弟姉妹の皆様お元気ですか。病気療養中のあなた、フィリピンやブラジルから参加しているあなた。おはようございます。あなたの参加をとても嬉しく思います。今日の説教内容は、本庄キリスト教会HPの礼拝メッセージTOP欄に配信されております。また自動翻訳機能付きになっていますので各国の言語で読むことが可能ですのでご覧ください。

さて、最近私は説教最後の適用部分をやめました。それは皆さん一人一人が自分で考え実行に移してもらいたいからです。私達プロテスタント教会はマルチン・ルターやジョン・カルバンの宗教改革時代から一方的に語られる聖書のメッセージを聞く、受身の礼拝を当然のものと受け止めてきました。勿論当時は、長い間礼拝で、聖書のみことばが語られない時代が続きましたので、これは画期的な事で素晴らしい教会改革でした。大いに評価されるべきものです。

しかし500年経った今も、私達は新約聖書に記録されている初代教会時代の礼拝に戻ることを振り返ることなく、ずっと同じ形の礼拝を続けています。そして多くの人が礼拝の中心は牧師の説教だと思い込んでおり、また牧師だけが説教するものだと思い込んでいます。

でも前回学んだように、コリント人への手紙第一14章26節には、それぞれの人が賛美したり、教えたり、啓示を告げたり(神の言葉の解き明かし)、異言を話したり、解き明かすことが出来るのが聖書的礼拝の在り方です。決して牧師の説教が中心ではありません。(前提:すべての事を適切に、秩序正しく礼拝が捧げられる事。Ⅰコリント14:40)

決して一方通行の礼拝でなく、互いに教え合う、神への礼拝が捧げられると、何が起こるでしょうか?そうです!私達が信仰的、人間的に成長するのです。Ⅰコリント14:26。私達の教会でも70年間、ただ一方的に牧師の説教を聞くことが続いていました(勿論信者同士の交わりはありましたが)でも、今のような教会形成が続くと、牧師がいないと何もできないような教会に成り下がってしまいます。皆さんにお聞きします。牧師がいなければ本当に教会形成が出来ないのですか。そんなことないでしょう。

勿論牧師が大切な立場であることには変わりありませんが、前回学んだ事を実践するなら本庄教会は生き残っていけるのです。逆に実践しないと人口減少に伴い教会も衰退し、やがて消滅します。是非、受け身ではなく、キリストの体なる教会の一員であることを自覚してキリストに仕えてまいりましょう。

そんな訳で、私は数年前から、礼拝の在り方を意識して少しずつ変えています。例えば高齢者が多いので、起立する回数を3回から2回に減らし、「ご無理でない方は起立してください」と司会者がアナウンスするようにしました。また証の時間を設け、皆さんが自由に賛美し、証しすることが出来ようになりました。挨拶の時間も大切です。礼拝が終わると皆さんすぐに帰るので、大勢の方と挨拶できないことが続きました。今は来会者と挨拶できるので感謝です。わずか、週に一回ですが、神の家族の挨拶はとても大切です。又、証は聖書を読んでから受けた恵みを語ってもらうと更に充実します。聖書メッセージも数名が話してくれると(Ⅰコリント14:29)礼拝に幅が出てきます。
来年から司会できる方が少なくなるので、私が司会する機会が出てくるかもしれません。その時、午後礼拝していた時のように、椅子に座って説教します(高齢なので)。良い点は上から目線でなく、皆さんと同じ目線で会話できます。一方的な受け身の礼拝から、聖書が示す礼拝スタイルに変わるよう皆で少しずつ実践してまいりましょう。

さて今日はコリント人への手紙第一11章17節~34節になります。11章から14章迄は使徒パウロが本質的な礼拝、教会の在り方を丁寧に示しています。宗教改革から500年経った今こそ、更に聖書にさかのぼり礼拝の在り方を模索してまいりましょう。以下3つの区分です。

●17~22:パウロがコリント教会の間違った礼拝の在り方を厳しく指摘しています。
礼拝の中で大切な事の一つに主の晩餐(聖餐式ともいう)があります。礼拝の時に夕食をいただくものです。夕食の合間にイエスが実行したように、パンをキリストの体として、ぶどう酒をキリストの血として飲みました。この時、経済的に豊かな人達は、我先に食事をしたのです(21)ぶどう酒も飲み始め、酔っぱらう人までいたのです。これは神の教会を軽んじたものです。後から来た社会的立場の弱い貧しい人たちは、食事にあずかることが出来ないので恥ずかしい思いをしたのです。これでは貧しい人を大切にするイエスの心から大きく離れ、キリスト教会の証が立ちません。教会形成は害になるばかりです(17)。

●23~26:主の晩餐は礼拝の中で極めて大切な、キリストの十字架の死と復活を覚えることです。新しい契約のしるしとしてぶどう酒を飲み、主イエスの十字架の死を記念することです。この礼拝は、主の再臨の時まで主の死を告げ知らせる大切な証となります。ここにキリスト者の再臨を待ち望む再臨信仰が出てまいります。

●27~32:結びの部分、貧しいものをないがしろにするような礼拝は主イエスの心を悲しめるものでした。相応しくない仕方でパンを食べ、杯を飲むような礼拝は、主の体と血に対して罪を犯すことになる。故に、よく自己吟味してパンを食べ、杯を飲みなさいとパウロは警告しています。
神の教会を軽んじるような礼拝の結果、神の裁きとして弱い者や病人が多くなり、又、死ぬものまでも出てきた。これは救いを失ったという意味ではなく、神は生きているお方なので、私達、救いを受けたものが、神のことばを軽んじ、神の所有である教会を軽んじれば神から裁きがある事を厳粛に示しています。
※聖霊を欺いたアナニヤとサッピラの事件(使徒5:1~10、240頁)ナダブとアビブの事件(旧約192頁、レビ記10:1~3、9)がありました。主は生きておられるお方です。主の前にある私達は、貧しい人を大切にし、誠実と謙遜な態度で、主を恐れ、主への賛美の心をもって仕えよう。今日はここまでです。メッセージを通して考えた事を記録しよう。

●今日の聖書箇所を通して神があなたに語り掛けている事は何ですか。
●また今日の聖書箇所を読んでどのように感じましたか。
●この聖書箇所を通して今日から実行に移せることは何ですか。
●今日の聖書箇所で関連した個所や聖句があったら教えてください。

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