
2024年8月25日
聖書箇所:マタイ6章19~24節
説教題:天に宝を蓄えよう②
今日は「天に宝を積もう」という題でマタイの福音書6章から私達の生き方について考えてまいりましょう。ここは5章~7章迄続く山上の垂訓の一部で、イエスが物事の本質を語っています。特に、今日のテーマは私達も含めた生き方として「天に宝を蓄えよ」です。又イエスは誰に対して語り掛けているかと申しますと弟子達や一般民衆、お金大好きな宗教指導者達です。そんな訳でこの場所にイエスと共にいる気持ちになって話の中に入ってまいりましょう。
19:まず初めに聖書ではお金(宝)を汚いものとか悪いものとは教えていません。それを用いる人の使い方次第でよくもなるし、悪くもなります。幸せにもなるし、不幸にもなると言う事ですね。ですから私達は、普段からよく働き、収入を増やし、通常の労働以外にも、株式や事業、不動産に投資をして世の中の経済活動の役に立ち、その結果として収益(報酬)を得ること事はごく普通の事であり良いことです。故にキリスト者も投資に関心を持ち、世の中の仕組みや経済について学ぶことは有益な事であります。
では何故、イエスは冒頭で地上に宝を蓄える事をやめよと言っているのでしょうか。それは自分の為だけに儲けを独り占めする、自己中心(自分以外はどうなってもよい)、欲の皮が突っ張っている、金の亡者、社会に還元するのはまっぴらごめんだ。という生き方をする人に対しイエスは自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさいと警告しているのです。何故やめないといけないのか。理由は簡単です。地上に宝を蓄えても、良い着物であれば虫に食われて価値がなくなり、金属はさびて使い物にならず、泥棒が家を壊して盗むからです。※これは2千年前も今も全世界で変わらない真理ですね。努力して得ても地上に蓄えた人の宝は最終的にはゴミになるのです。私は不要品整理の仕事もしていますのでごみの山となっている光景を何度も見ています。
20:ではイエスは宝を何処に蓄えよと言っているか。自分の為に天に宝を蓄えよ。注目したいのは人の為ではなく自分の為(あなた自身の為)とイエスは言っています。それを前提に、自分がまかされている、お金や富を神の御心に沿った使い方をしなさいと言う事です。当然働いて得た収入は自分の健康や生活維持の為に使います。それと共に忘れてならないのは貧しい人や、キリストの愛の心を表す行為としてお金や時間を使う。これが天に宝を蓄える生き方です。何故断言できるかと申しますと後で説明しますが、22節と23節がそのことを述べているからです。
でもこれを実践すると私達の地上の銀行通帳残高は余り増えないかもしれません。でも大丈夫、イエス様のところ(天)に宝を蓄えれば、盗まれる心配もなく、錆びや虫がつく心配もありません。しかも、神を愛し隣人を愛する生き方(投資)は満期日まで解約できない定期預金なのです。そして満期日に自分の生涯を終えイエスの身許に帰る日に、主は私達に天の宝の銀行通帳(いのちの書)を見せてくれます。そして主は「よくやった、良い忠実な僕だ」とほめてくれます。
この様に天に宝を蓄える生き方をする人の生涯は確実に変わります。何故ならこれこそがイエスが示す最も優れて価値ある人生の投資だからです。ではあなたにお聞きします。あなたは本気でイエスが言われた天に宝を蓄える生き方に賛同しますか。もし、本気でこの生き方を実行する人が起こされればあなたの教会は内面から変わり、成長を遂げていきます。何故ならイエスの御心にかなう生き方をしているからです。キリスト者にとって大切なのは生き方ですから。もう一つ、天に宝を蓄える事に熱心な人は生活に困る事がありません。
21:人の生き方、生活はその人の心の中にあるものが現れと言います。天に宝を積む生き方をしようと決断する人は隣人の幸せの為に生きようとします。逆に地上に宝を蓄えようとする人は自分の幸せしか考えないクリスチャンに成り下がってしまいます。この様に人の宝のある所が違えば、同じキリスト者で有っても生き方や価値観が全く違ったクリスチャン生活を生きる事になります。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心があるのですから。
22:22節と23節は慣用句です。この表現は日本人にはよくわかりません。でもイエスは当時のユダヤの慣用句を使って天に宝を蓄える生き方と、地に宝を蓄える生き方の違いを述べています。目が健全(健やか)とは、貧しい人に気前よく施すという意味で、逆に23:目が悪いは、その逆の意味になりケチ、自己中心、憐れみがないという意味になります。ですから、イエスはここで目の明るい人になりなさい。そうすれば体全身から神の愛が溢れ出るのです。気前良く施して生きよという勧めを当時の慣用句を使って天に宝を蓄えるように勧めているのです。受けるより、与えるほうが幸いであるというイエスの言葉と同じ意味になります。
この様にイエスは目が健やかと目が悪いという当時の人なら誰でもわかる言葉を用いて天に宝を蓄える生き方を教えているのです。このようにイエスの教えは具体的です。
24:ここは結論部分。キリスト者は誰に仕えるのですか。神の僕は神と富の二人の主人に仕えられません。富(金銭)に心奪われず、主(しゅ)に役立つよう人に施し、主の為に用いる。これが神に仕える生き方で、天の宝を増やしていく生き方です。
結び
この話をイエスは特に当時のお金が大好きな人々を念頭に置いて話したのです。自分の宝を地上にばかり蓄える人の末路(ユダヤの指導者)は、みじめで、虫がつき、さびていきました。あなたも自分の為に地上にのみ宝を蓄えようとするならそうなります。
さて、皆さんの中に今日の私の話に違和感を持つ人がいるかもしれません。でもその違和感こそが間違った聖書理解に基づくことを知ってください。何故なら天に宝を蓄える生き方を初代教会の人たちは普通に実行していたのです。それ故多くの困難を乗り越え全世界に広がっていったのです。実はあなたが聖書が示す教会の生き方を先輩達から教えられて来なかったという事です。
事例
①使徒の働き20:34~35(新約278頁)をお開きください。ここは使徒パウロがエペソの長老たちに語った告別説教の一部です。彼は自分の必要の為、共にいる仲間の為に働いてきたのです。それは弱いものを助ける事、主イエスご自身が受けるより与えるほうが幸いであると言われたからです。
②第二コリント9:11(新約367頁)をお開きください。この8章と9章は献金について詳しく示されているところですが、マケドニア地方の諸教会が当時経済的困難にあったエルサレムを助けるために献金を募って助けようとしているところです。今でいう被災地支援エルサレム版というところですね。集めた後に千キロ以上離れたエルサレムへ届ける大事業を普通に行っていたのが初代教会です。
③ガラテヤ2:10(376頁)をお開きください。ここはパウロがペテロ達から誤解されていた時の弁明の言葉ですね。イエスをメシヤと信じたキリスト教会は、ユダヤ教と同じように貧しい人への支援は常識でした。この点を指摘された時、パウロは貧しい人の事なら私も大いに務めてきたと弁明しているのです。
この様に常に貧しい人たちをいつも心に留めてお世話することはキリスト教会では常識だったのです。初代教会でもこの働きがずっと続いていたのです。それ故キリスト教会こそが福祉の原点でもあるのです。
でも私達はキリスト教会の常識、今迄普通にやってきたことが途中で途絶えてしまい、言葉だけの福音を伝える広報活動のみしている、味も素っ気もないキリスト教会になってしまいました。結果的に日本人の殆どは(99%)がキリスト信仰について魅力を感じないので相手にしてくれません。それは日本人が信仰について関心がないのではなく、私達キリスト教会の側が聖書が示す教会の姿になっていないことが大きな要因であると思います。
ここが日本のキリスト教会最大の弱点があると思います。故に能登で多くのキリスト者や地域社会が大変苦しい思いをしていても日本のキリスト教会では被災地支援活動に関心はなく、とっくに終わったものとして無関心なのです。現地にチームを派遣する教会や継続して献金する教会は少ないのです。
でも皆さん、能登の現地に行ってみると違いが判ります。台湾や香港の中華系の教会の兄弟姉妹たちは今も続けて能登半島の皆さんを支援しています。彼らは継続的に人を派遣し、今もまとまった献金を継続して送ってくれます。アジアの諸教会は日本の為に涙を流して祈り、捧げ、家のがれき処理の為に喜んで飛行機に乗って来てくれるのです。これが世界のキリスト教会の現実です。今、イエス様や使徒パウロがいたらチームを組んで率先して支援活動している事でしょう。
今回「天に宝を蓄えよう」というイエスの山上の垂訓の言葉から心にキリストにある者の生き方を考えてみました。キリストの再臨がますます近づいている今こそ、今日のみことばを真剣に受け止め聖書が示す教会へと変えられていこうではありませんか。
