コリント人への手紙第一(41)

2021年4月4日
聖書箇所:Ⅰコリント15:12~19
説教題:死者の復活こそ大きな望み  

おはようございます。ライブ配信準備OKですか。はい、ありがとうございます。ネットをご覧の皆様にもご挨拶申し上げます。本庄教会の皆様、友達の皆様、本庄教会に関心を持って共に礼拝に加わって下さる皆様おはようございます。あなたと共に礼拝出来る恵みを感謝します。これからの時間宜しくお願いします。

さて、昨日で受難週が終わり、今日はキリストの復活を覚える、大きな喜びの日であります。という訳でコリント第一15章から、キリストの復活と私達の関係について学びます。イースターでは当然のこととして、主イエスが苦しみながら十字架を担ぎ、その十字架にかけられ、苦しみ悶え、身代わりの死を成し遂げられた事、ついには神の力によって三日目に復活した、ご自身のいのちをについて語られます。当然イエスを救い主と信じた人は救いを受け、やがて朽ちない栄光の体に変えられます。これがキリスト信仰の基本的なことです。

勿論コリント教会の信者も、使徒パウロから、この福音の知らせを教えられ、受け入れています。ところが、一部の信者が、死者の復活(これは信者がやがて栄光の体に変えられて復活すること、終末における救いの完成ですが)これを無いとして堂々と否定する人たちがいたのです。こうなると明らかに聖書と違う考え方ですが、いつの時代でも異端の教えを持ち込む人はいました。
以上がこの15章の背景です。今日は、これに対してパウロは彼等の考えを、どのように正していったかを見てまいりましょう。

12:コリント教会の信者たちはイエスの十字架の死と復活を信じてキリスト者になりましたが、先ほど少し述べた様に、死者の復活はないと主張する人がいました。これはどういう意味か?イエスが十字架で自分の罪の身代わりとして死に、葬られ、三日目に栄光の体をもってよみがえったことは信じています。しかし、信者がキリストを信じて、救いを受けても、やがて世の終わりの時に栄光の体に復活しないという考えを持つ人、それが死者の復活はないという考えです。どうですか?この考え方、聖書と違いますよね。なぜそう考えたか?2つのことが考えられます。

①ギリシャ人特有の考え方に、目に見えないもの(霊的なものは)善で、目に見えるものは悪だという考えがあります。例えばこの肉体は霊を閉じ込める牢獄であり、霊が肉体から解放された状態こそ良いもので永遠に生きるという考え方です。だから救いを受けても、死んだ人が栄光の体であっても体をもって復活することはあり得ないとする考え方です。

②もう一つは、イエスを信じて救われ、洗礼を受けた時、既に霊的に復活したのだからと言う考え方です。だから、終末の時に復活することはあり得ないとする考えです。この考え方はもっともらしい部分もありますが、やがて、キリスト者は栄光の体に変えられ復活する事、終末における救いの完成はないと否定していますので、使徒達が教える聖書と全く反対になります。異端的な教えと言う事になります。
これに対して使徒パウロは死者の復活が無ければキリスト信仰は意味のないものになるとしてこれ以降キリストの復活と信者の関係をのべています。

13:もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。※逆に言うと終末の時、キリストに在る死者が栄光の体に復活する為、キリストはよみがえったという事です。

14:そして、キリストが死んで終わっただけなら、宣教の根拠がなくなり、空しく、信仰もむなしいものとなってしまいます。15:更には、神について偽証人とさえなり、神に逆らう証言をしたことになります。本当にこの通りですね。16:やがてキリストに在って死んだ人が栄光の体に変えられるためにキリストもよみがえったのですから。

17:キリストがよみがえらなかったとしたら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今も尚、自分の罪の中にいる。このようにしてキリストの復活は死者が復活する為であると述べている。

キリスト者の特徴は何でしょうか?そうです。罪から解放されて自由にされたことです。これはキリストが私たちの罪を赦す為に、身代わりとして呪の木にかけられ、神の呪いを一身に受けてくださいました。私達が栄光の体に復活する為に罪のない方が、罪とされた事により私達の罪は赦され、今私達は罪の中にいません。罪から解放され自由にされたのです。しかし、キリストの復活が無ければ依然として、私たちは罪の中にいます。18:そうだとしたら、キリストに在って先に死んだ人は何の望みもなく滅びの中にある。

19:結論部分、この地上に於いてのみ、キリストに望みを抱いているだけなら、私達は、地上で一番哀れな存在です。キリストの復活抜きは、死者の復活 キリスト者最大の希望が無いので最もみじめな者に成り下がります。キリストの復活抜き信仰は、マタイの福音書5章~7章の山上の垂訓を自分の頑張りで生きる、この地上にのみ生きる信仰生活で終わります。

本当にこの通りです。私達は今こそ、しっかりとキリストの復活故に、やがて終末の時、栄光の体に変えられる望みをしっかりと受け止めたいと思います。そして、キリストの復活と死者の復活は常にセットになっていることを覚えておきたいものです。

最後に20節。しかし、今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえりました。初穂は、次に続く者があるという意味です。それは誰か?コリント教会で救いを受けて先に主の元に召された人たち、そして私達に対しても復活することの保証(初穂)となったのです。

イースターにあたり、もう一度キリストの復活と死者の復活の関係、そして私達が死んでも栄光の体に復活する希望を持ち続けてまいりましょう。それこそ私たちの最大の望みです。

今週も、そして今月も、そして今年も復活の希望を持ちつつイエスを見上げて歩んでまいりましょう。

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