キリスト信仰の本質とは 

2022年12月22日

2016年3月13日
=召天者合同記念礼拝=
参照聖句:ルカ23:32~43 
説教題:キリスト信仰の本質とは 

今日は召天者合同記念礼拝にようこそおいで下さいました。礼拝を通して先輩の信仰者たちは何をどのように信じていたのかもう一度考えてみたいと思います。そしてキリスト信仰とは何か、その本質を確認したいと思います。

今日の聖書箇所はイエス・キリストが十字架に付けられ苦しみを受け33年間の地上生涯を終えて壮絶な死を遂げる場面です。これは実際に今から2千年前に起こった出来事でありますが、この状況に至るまでの経過を確認してから今日の話に入ります。

 イエスは罪のない方でしたがユダヤ人指導者の妬みにより宗教裁判にかけられ、また、当時の支配者ローマ帝国ユダヤ総督ピラトから死刑の有罪判決を受け、自ら十字架の横木を担いでエルサレムのゴルゴダ(どくろ)と呼ばれる場所まで歩いていきます。途中で歩けなくなって背負いきれなくなり他の人に十字架を担いでもらいます。これが金曜日の朝早い時間帯です。死刑場につくとローマの兵士によって服や下着を全部脱がされて、はずかしめを受け、頭にいばらの冠をかぶせられ、又むち打ちによって血が噴き出している状態です。当時のローマの鞭は先が動物の骨などで出来ており体に食い込むようになっています。この時すでに人が目を背けるような血だらけ、傷だらけの状態となっています。

十字架に付けられるときには十字架の横木に手首のところを太い釘で打たれ、また縦木の部分には両足を重ねるような格好で太い釘を打たれている状態です。お尻の所にはでっぱりがあって少し体重をかけられるようになっています。当時の死刑の方法としては最も苦しみを伴う残忍な死刑方法であり、イエスは見上げるような高い十字架に朝9時~午後3時まで実に6時間苦しみ続けたのが本当の姿です。直接的には窒息死が原因です。本来十字架は首に飾るようなおしゃれで格好いものではありません。

実はこの時、二人の犯罪人も十字架に付けられ死刑になっています。今日の聖書箇所は朝9時から12時までの3時間の間に起こった事です。この事実を前提にして話を進めていきます。

イエス様は極度の苦しみの中で7つの言葉を語られました。その中の2つが今日の箇所です。
1、イエスのとりなし
34節「父よ、彼らをお赦しください」
自分を十字架につけ、ののしり、あざける多くの人(祭司長、律法学者、総督ピラト、ローマの兵士たち、ユダヤの民衆たち)に対して、父なる神に取りなしの祈りをしました。彼らはどのような事をしているのかわからないのです。ローマの兵士に限って言えば、上官の命令に従っているだけなのです。許してあげてください。まさしくあなたの敵を愛しなさいと言われたその通りに迫害する者の為にとりなしたのがこの祈りです。
私は43年前にこれを読んだ時に、この言葉は人ではとてもとても言える言葉ではないと思いました。この時、私はイエスこそキリスト、救い主、真の神であると確信したことを覚えています。この言葉と実践こそキリストの本物の愛です。

2、私を思い出してください 犯罪人 39節~42節
 キリストが十字架に掛かって死んだときに2人の犯罪人が両脇にいました。極悪人です。他の福音書を見ると最初は二人ともイエスに悪態をついていることが分かります。「お前はキリスト・救い主だろ。だったら自分と俺たちを救え」と言ったのです。しかし、しばらく時間がたつと一人の犯罪人に心の変化が生じました。苦しみの極みにあっても人をとりなすキリストの真の姿を間近でみてイエスを見て、この方こそキリスト救い主であると確信しました。そして彼は神の前に自分の罪を悔い改めたのです。
悔い改めとは昔柿泥棒をしたとか、今までの悪いことを全部洗いざらい言い表して神に謝ることではありません。キリストに対して認識を変え、考え方を変えて、今までの人生を方向転換する事を悔い改めと言います。創造主なる真の神に向かって生きようとする事です。ここを誤解しないでください。

この時に彼はイエスこそ救い主・キリストであると信じたのです。証拠が40節~42節の言葉です。犯罪人の言葉を読んでみます。特に42節「イエス様、あなたの御国の位にお着きになる時には私を思い出してください。」これこそイエスに対する正しい認識です。この時に犯罪人はキリストの救いを受け新しい命を受けました。

イエスの答え。「まことにあなたに告げる。あなたはきょう、私と一緒にパラダイスにいます」これは、肉体は死ぬけれども、私を救い主と信じた故にあなたは今すぐに私と一緒に死者の魂が行く祝福の場所であるパラダイスにいるとキリストが宣言しました。あなたは新しい命を受けて復活するというキリストの宣言です。彼は聖書も読みませんでした。洗礼準備講座にも出席しませんでした。慈善事業に励むこともありませんでした。心のきよい人ではありませんでした。でも彼は人生の最後の最後でイエスを救い主と信じただけで救いを受けました。実に彼は恵みによって、信仰によってキリストの救いを受けたのです。

結び キリストの救いとは 恵み
実は今日読んだ聖書箇所にこそキリスト信仰の本質があります。キリストは創造主である真の神が人となられた救い主であり、十字架の苦しみの死と復活は私の罪を赦すためであったと信じるならばそれだけで救われるのです。これを恵みによる救いと言います。犯罪人の一人はその信仰をもって救いを受けました。これこそキリスト信仰の本質です。

そして先輩の信仰者たちもキリストを仰ぎ見て恵みによって救いを受け主のもとに召されて生きました。まさしく信じるものは救われるという世界です。

あなたはどちらを選びますか。人生の最後の最後で信じて新しい命を受けて歩んだ人のように、きょう私と共にパラダイスにいますと言う約束を受けた人のような人生を選び取っていこうではありませんか。お祈りいたしましょう。