福音メッセージ(文書版)

第三の道を求めよう

ヨハネの福音書9章1節~12節
本庄キリスト教会牧師 吉田孝

今日はイエス様と目の見えない人の対話から「第三の道を求めよう」というテーマで考えてみましょう。

 

 

1節:イエスの選び

エルサレムにあるシロアムの池近くに目の見えない人がいました。彼は生まれながらにして見える世界を経験していません。では生活費はどうしていたか?人通りが多い神殿近くの道端で、ものごいをし、人の善意で収入を得て生活していたのです。彼は見えない世界をそのまま受け入れて生きざるを得ませんでしたが、イエスはそのような立場の弱い生まれつきの盲人に目を留め、彼を選ばれたのです。イエスは弱い立場の人に対して常に関心を持ち、目を留めて助けが必要な時には惜しまず助ける方でした。

2節:弟子達の質問

一方弟子達は彼についてイエスに質問を投げかけています。彼の目が見えないのは誰が罪を犯したからですか?というものです。日本的に言うと何かの罰が当たったから目が見えないのかということです。当時の人々は、苦しみ、不幸の原因は罪の結果と考えていました。誰が罪を犯したからですか?弟子達にとっても、この質問は普通のことです。ただここで面白いのはこの人ですか?という質問です。それは当時の宗教指導者が、人が胎児の内から既に良い性質と悪い性質があって、悪い性質が勝つと、敵意をもって母親の腹を蹴飛ばす、これが両親を敬わない罪と教えたのです。故にこの人の罪かいう質問は当時の人にはごく普通の質問でした。もう一つの両親ですかと言うのは日本的には先祖の罪の祟りという事になるのでしょうか?

3節:イエスの答え

本人の罪か、両親の罪かという二者択一の質問を投げかける弟子達に対し、イエスは答えます。それは第三の答えで、この人でも、両親でもない、即ちAでもなく、Bでもない。Cの道がある答えです。日本人的発想で先祖の罪と答えてしまうかもしれません。一見不幸と思われる事を先祖の祟りと決めつけて、お金を巻き上げる悪徳宗教家もいるくらいですから。しかし、イエスの答えはむしろ積極的で神のわざがこの人に現れるという答えでした。
イエスが言いたいのは病気や不幸と思われる事があってもそれを特定の罪によると断定してはならないということです。創造主は、私達が様々な弱さや足りなさをもって生まれる事を許しています。目が見えず、手、足、体が自由に動かず、また神経の病や発達障害症状をもって生を受ける事もあります。
家族にとって重荷となることもありますが、決して神に呪われた存在でも、汚れている訳でもありません。そうです!弱さを持つ人にこそ積極的に神のわざが現わされる、価値ある人なのです。こうしてイエスは唾で泥をこね彼の目に塗り、シロアムの池で洗いなさいと命じます。彼はイエスの言葉に従い、目を洗いました。イエスに対する信仰によって彼の眼は癒され、生まれて初めて明るい世界が見えるようになりました。

結び

私達が決断に迷う時、AかBだけでなく、常に主なる神から第三の道を求める習慣を持つ人は幸いです。イエスを信頼して、祈りを通して、私の心に語り掛けるイエスの声なき声を聞いて歩む道です。実はこれが一番、安心、安全で最善の道で、神のわざが現される最高の道です。今からイエス様に信頼して祈り、生きる事を始めてみましょう。必ずあなたの人生に変化が起こります。
もう一つ、あなたが試練や苦しみの中にあるとしても、あなたや両親の罪の結果ではありません。むしろ、あなたを通して神のわざが現されます。自分や両親を責めることなく神のわざが現されると受け止めてまいりましょう。
イエス様は、あなたがどんな時にも愛と関心をもって導いてくださいます。是非イエスに信頼して祝福の道を受け取って下さい。この祝福はあなたから子へ、子から孫に受け継がれる祝福です。