
聖書箇所:マタイの福音書3章10~12節
説教題:聖霊と火でバプテスマをする方
おはようございます。2025年度最初の主の日を皆様と共に迎え、礼拝を捧げる恵みにあずかり感謝します。又、ライブ配信を通して礼拝参加している兄弟姉妹の皆様、病気療養中のあなた、フィリピン、ブラジル、ヨーロッパから参加しているあなたもおはようございます。皆様の参加を感謝いたします。毎回ライブ配信礼拝に本庄教会以外の方を含め30人~40人の方がご参加くださり感謝申し上げます。これからもよろしくお願いします。
さて、先週からマタイの福音書に戻り、御言葉から考えています。著者マタイは(本名:レビ)ローマ帝国の手先となり税金徴収者でした。当時は取税人と呼ばれて同胞に蔑まれていましたが、ある時イエスと出会いメシヤ(キリスト)と信じて人生が変えられた人です。
そして彼はイエスの十字架の死と復活後、30年以上を経て、ナザレのイエスが誰であるかをユダヤ人に伝えるため紀元60年代後半に、シリヤのアンテオケで、マタイの福音書を書き表したと伝えられています。特に同胞のユダヤ人を意識してキリストについて書き上げました。今日は前回からの続きで7節から読んでいきます。
●7~9:罪の告白と悔い改めの為にヨハネ(※彼はマラキの後に登場した旧約時代最後の預言者で、使命はメシヤを迎える道備えをする)から、バプテスマを受けに来た人々の中に、指導的な立場にあったユダヤ教二大勢力のパリサイ人やサドカイ人がいました。彼らがバプテスマを受けに来た動機は他の人々と違い、罪を悔い改め人生をやり直したいから、バプテスマを受けるのではなく、人に見せるためのパフォーマンスでした。
パリサイは「分離」という意味で、自分達は一般民衆のような律法を守らない愚かな民から「分離している」と見下げていた高慢な人々で、但し表面的には信仰的なふりをしていたのです。
一方サドカイ人は、神と人の間で奉仕をする祭司階級ですが、本来の使命を忘れエルサレム神殿で金儲けに明け暮れる日々を送っていた人々です。信仰的にはパリサイ人と違って復活や御使いの存在を認めない合理主義者達でした。イエスは彼らの本心を知っていましたので、「マムシの子孫たち、誰が迫りくる御怒りから逃れるよう教えたか」と厳しく語り、悔い改めに相応しい実を結ぶよう警告したのです。
彼らは「自分たちの先祖はアブラハムだ」として特権階級のように誇り、高慢になっていたので、ヨハネは「神はこれらの石ころからでもアブラハムの子らを起こすことが出来る」と警告し彼らの高慢な心を打ち砕いたのです。何故なら、彼らはユダヤ人であれば自動的に救われていると思い込み、非常にたちの悪い猛毒を持った指導者でした。やがて彼らによって国が亡ぶのです。
10:ヨハネは悪い指導者に対し厳しい言葉を「たとえ」で投げかけています。斧は、ここでは神の裁きを表しています。木は、彼らの高ぶりとも解釈できます。ヨハネは、彼らが神の前にも、人の前にも罪を犯し続ければ、いつでも厳しく裁く(火に投げ込む)と警告しています。
この裁きの預言が、具体的には40年後の紀元70年にエルサレムがローマの軍隊によって包囲され神殿は焼かれ跡形もなくなったことが成就しました。まさしく火に投げ込まれたのです。こうして、神殿での奉仕を生業にしていたサドカイ派の人達は滅んでしまったのです。
11:ヨハネは、私の後から来られる方(主イエス・キリスト)を紹介しています。
まず自分とは格が違いすぎると述べています。具体的には、「私は悔い改めのバプテスマを水で授けているが、私の後から来る方は力があるお方です」私にはその方(イエス)の履物を脱がせて差し上げる資格さえもありません。履物(サンダル)を脱がせて足を洗うのは僕の仕事ですが、その僕がするすることさえ出来ない立場であると言っているのです。イエス様は自分とは比較にもならない存在であると言っているのです。
・その方は聖霊と火のバプテスマを授けてくださる。バプテスマは「浸す」「沐浴」「一体となる」という意味があります。そうするとここでいうところの聖霊のバプテスマは、イエスが聖霊の導きと力で、悪魔の誘惑を退け、御国の福音を伝え、病をいやし、悪霊を追い出し、恵みのことばを語られたように、私たちイエスをメシヤと信じる者に対して聖霊を注ぎ、生活をきよめ、新しい力で満たす(浸して)くださる。これが聖霊のバプテスマです。
・イエスが火のバプテスマを授けてくださるとはどういう意味でしょうか。ここではパリサイ人とサドカイ人に対して言っているので、火のバプテスマは裁きと言う意味になります。即ち心が頑なで、傲慢な彼らに対し、イエスの義、神の怒りは火のごとく厳しいものです。
12:更に主権者としてのイエス、手に箕(winnow)を持っている。箕は麦の実と殻をふるい分ける時に使う農作業をする道具です。からは風に飛ばされたり、焼かれたりします。そして箕の中には良い粒だけが残ります。
それ故、ここはイエスが主権に基づく裁きについての「たとえ」だとわかります。神は、イエスの十字架の血潮を通して、正しいと認めたものをご自分の国に入れ、悪人を消えない火(ゲヘナの火)でさばきます。キリストはそのようにする事が出来る主権者としての権威を持っているお方です。
適用:私達も主の前にあって道備えをしたバプテスマのヨハネのように、人々がイエスを受け入れやすくするような使命があります。それは、あの人のように私も生きたいと思ってもらえるような生き方です。具体的には聖霊の力に励まされて、私達が隣人愛に生きている姿です。
その為にも、バプテスマのヨハネが「私には、その方の履物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火でバプテスマを授けられます」と言って、主イエスを見上げ謙遜にされ、聖霊の力を受け、日々生きる生き方こそが最も必要です。
●今日はここまでですが、皆さん如何でしたか。4つの事を考え書いてみましょう。
①今日の聖書箇所を通して神があなたに語り掛けていると思う事は何ですか。
②今日の聖書箇所を読んで何をどのように感じましたか。
③今日の聖書箇所を通してあなたが、今から実行に移せることは何ですか。
④今日の聖書箇所と関連した個所や聖句があったら教えてください。
