すべて評判の良いことに生きよう①

2023年1月08日
参照聖句:箴言3:27~28
説教題:善を行う力を控えるな②(副題:信仰生活50年を振り返って思う事) 

おはようございます。2023年1月8日も共に集まり礼拝をささげる恵みにあずかり感謝します。またネット配信を通して共に礼拝をささげているあなたもおはようございます。お元気でしたか?ネット越しですが今年もあなたと共に礼拝をささげる恵みにあずかり感謝します。

 先週は私の小さな信仰生活の歩みを振り返って、なぜ日本では150年のキリスト教宣教の歴史があるにもかかわらず、また7千以上のキリスト教会が伝道しているにもかかわらず信者は増えないのかという疑問について考えました。これに対し私は2つ要因があるのではないかと申し上げました。あくまでも個人的な仮説ですが、一つは聖書が勧める「良い業に励む事の理解が乏しい」個人としても教会としても。もう一つは「信仰を次世代へつなげる意識の不足」この2つだと思います。今日も良い業についてだけになりますが4つのポイントから話します。

私達日本のキリスト教会、特に私たちが属する福音派の教会は聖書信仰という素晴らしい面があります。そして聖書のみことばを大切にし、みことばを伝え、みことばを丁寧に解釈して説教する素晴らしい面を持っています。
しかし教会が具体的な実践として良い業を通して世の中に積極的にかかわっていく事になると非常に乏しい感があります。どうして社会的に弱い立場の人との関わりを持たないのか、いや持とうとしないのかと思います。もしかしたら社会的弱者とのかかわりは面倒くさいと考えている?。

では何をしてきたのか。長々と決まらない議論ばかりする。人のやっていることを批判ばかりする。結局何も変わらないまま時間が過ぎる。一方では様々な方法で伝道が盛んにおこなわれ、各種セミナーも活発ですが根本的な生き方が変わらないので実が実らない。これが今までのキリスト教界の大きな流れではないかと個人的に考えています。(あくまでも個人的な考えです)

1●では聖書は善を行う、良いわざ、行いについて何と言っているか?
箴言3:27~28 旧約1096頁 善を行う力を持っていても、それを控えてはいけない。
これは聖書の一貫した勧めで特に弱い立場の人に対して愛を示すことです。実は愛に生きれば、
キリスト者が個人的にも、教会全体としても、力まずとも証が進んで教会は再生します。
そしてこの証の生き方によって無理に伝道、伝道と言わなくても十分キリストの証が出来ます。

※残念ながら今まで行いの重要性を教えてくれた先輩は余りいませんでした。救いや恵み、伝道については教えてくれたが、弱者に対する積極的な愛、善行、良い業を示した人は殆どいませんでした。唯一、ルーテル教会の元牧師のN先生は身をもって愛の実践を示してくれました。この先生とは一緒に阪神大震災支援をし、神戸でカウンセリングの働きもしました。捨て身で隣人愛に生き人で、この人の周りには人が集まってきたのです。私はこの先生から多く学びました。

2●聖書はどのような生き方を勧めているか? ヤコブ1:27 新約459頁
・ここは孤児ややもめに対するお世話が書かれていますが、要は困っている人がいたら手を差し伸べるのがキリスト者の生き方と言う事です。ですから私たちもこの原則を大切にする必要があります。困っている人には手を差し伸べる。これをまず教会関係者から広げる。何故か?神の家族だから。その次に周りの人へと働きを広げる。この順番で行けば幅広く良い業を自然な形で実践することが出来ます。こういう文化を教会が作って行ければ幸いです。
※何故、韓国やアメリカ、フィリピンの教会が成長しているか?それは困っている人がいたらすぐに出かけて助ける。腹が減ったら一緒に食事する。隣人と分け合う。これを普通にやる文化が出来ているのです。東日本大震災の時アメリカ人がすぐに支援活動に来てくれました。教会の底力を見ました。まず屁理屈言わず愛の実践をする。本庄教会もそういう流れを作って行こう。

・更に進んで聖書の主張を見ていこう ヤコブ2:14~18 新約460頁 箴言の言葉の延長です。
信仰も行いが伴わないなら、それは死んだものです。信仰と比例した行いがポイント。
実は今の日本でも15節・16節の厳しい状況が広がっています。着るもの、食べ物、住む家があって世の中の底辺を見ない人にはこの現実は分かりません。キリスト教会でも中の上ばかりを見ている教会ではこの現実は見えにくいです。教会が言葉だけの宗教になっているときには、弱い立場の人への愛の実践はできなくなってしまいます。
 では何が必要か?信仰には行いがつきものです。行いのない死んだ信仰からに行いが伴う本当のキリスト信仰へと変わるのです。私たちが変わるとキリスト教会やキリスト者に対する周りの目や態度は良い方向に変わってきます。

3●使徒パウロはどう生きたか? ガラテヤ2:10 新約376頁
この書物はパウロが小アジア(今のトルコ)ガラテヤ地方の諸教会が律法主義者達にかき回され割礼やモーセの律法を守るべきだという教えに流されていた時、憤りをもって書いた手紙です。
この中でパウロが貧しい人の支援をおろそかにしていると非難された時きちんと弁明しています。「そのような働きを自分は大いに務めてきた」当時のキリスト教会の常識は弱い立場の人を助けることでした。又エルサレム教会が飢饉やローマの圧政によって経済的に困難にあった兄弟姉妹たちを先頭に立って支援しています。使徒パウロはコリントやテサロニケ、ピリピのヨーロッパ諸教会に呼び掛け献金を届けています。(Ⅱコリント8章以降に詳しく出てくる)
このように聖書の世界は弱い立場や困窮している人を助けるのは当たり前なのです。でも悲しいかな。ある人は人に見せるためにやっているとか。パフォーマンスだと非難するが気にしない。

4●結論 あなたはどう生きるか? 今回はキリスト者の愛の実践、良い業に焦点を絞ってみた。
・もう一度自分の生き方を点検してみよう。自分は言葉だけの信仰者か?それとも良い業を伴った信仰生活をしているか。点検してみよう。
・まず神の家族である兄弟姉妹や教会関係者を大切にしよう。神の家族を優先しその次に外の世界に目を向けていこう。今の日本は徐々に貧しくなっています。逆にお金持ちはどんどん多くの富を持ちます。貧富の格差が一層広がります。
・そうした時、教会は、大変ですねと言って、眺めているだけですか?そうではありません。
常にイエスの心をもって弱い立場の人に目を向けていくのです。
・皆さんはこれからどんなことにチャレンジしますか。このまま教会が世の中の弱い立場の人に目を向けないでいけば高齢化とともに消滅するのか、何もしないと座して死を待つだけです。(言葉だけの信仰は弱いです。ルターの時代、今から5百年前は言葉が必要だった。でも今の日本では言葉とともに行いの信仰が無かれば人々にキリストの愛は届きません。)
・あなたはイエス様の心をこころとして生きますか。善を行う力を控えることなく前進してまいりましょう。来週このテーマでもう一度話します。お祈りいたしましょう。