マタイの福音書(8)

2022年12月24日

2015年2月22日
聖書箇所:マタイ5:1~12
宣教題:真に幸いな人とは  

今日からマタイ福音書5章~7章続けて学んでまいります。この山上の説教と呼ばれる個所は非常に有名なイエスの教えですが前後関係を無視して読まれることが意外と多いので誤解していることがあります。例えばイエスは最高の道徳的な教えを述べているとか。人は山上の説教のようなレベルの高い生き方は出来ないものだという事を教えているとか。あるいは山上の説教のように生きれば救われるのとか様々な事が言われていますが皆さんはどのように理解されていますか。今日は実際のところイエス様は何を教えているのかを共に学びたいと思います。

それでは本題に入ります。イエス様が山上の説教を弟子たちに話された時期はいつごろと思われますか。いつも言っている事ですが、聖書を理解していくためには文章の流れが大切になります。一部分だけを勝手に切り取って自分の都合に合わせる解釈をすると聖書が本当に言っていないことまで言ってしまいますから文章の流れを理解することが大切になります。

ここでイエス様は群衆に対して話しているのではなく弟子たちに対して語りかけている点を押さえておきましょう。イエスの公生涯の時期は、マタイだけを読むと初期の頃かなと思いますが、時間の流れを大切にして順序正しく書いているルカの福音書6:12以降の並行記事を見ると、12使徒が任命された後であることがわかります。ということはイエスのガリラヤ伝道が終わりの頃だという事が分ります。弟子たちは、イエスが救い主、メシヤであることを信じて心が新しく神から義とされたあとの事です。そのことを踏まえてイエスは弟子たちに山の上で語られました。

そこから考えるとこのイエスの山上の説教は信仰によって義とされた弟子たちが持っている特徴、性質が更に磨かれて成長していくようにとの願いを込めて語られていると考えられます。何故なら、神への信頼の結果、心を変えられた人が、更に聖霊によって助けられながら成長を目指して行くように励まされているからです。またここで主イエスは弟子たちに対し「幸いなるかな・・」と最初に言ってから語りかけています。その視点で読んでいくと山上の説教がより身近に受け止められてきませんか。ではどのような人が真に幸いなのでしょうか。又キリストを信じて新しくされた者の特徴はどのように更に磨きがかけられていくのでしょうか。
1、心の貧しい人 
自分の心の貧しさ、弱さに気付き、へりくだって神の前に謙遜に生きる事を目指す人。この人は神のみに信頼して生きています。

2、悲しむ者
人生で味わう様々な悲しみが豊富な人が幸いとは違います。自分の罪深さを認めて悔い改めできる人。主に向かって方向転換する人。神によって慰めを受けます。

3、柔和な者
いつもニコニコという事ではありません。静かで動じる事のない強さを持っている人の事です。神への信頼に生きているから、虚栄を張って自分を大きく見せる必要はありませんし、信仰深く見せる必要もありません。
聖書の例
:モーセに様な人 民数記12:3 地上の誰にもまさって非常に謙遜(柔和)であった。
:イエス様のような人 マタイ11:29 私は心優しく(柔和で)へりくだっているからあなた方もわたしのくびきを負って私から学びなさい。

4、義に飢え渇くもの
 神の前にきよく生きたいというと強い願いをもって生きる人

5、憐れみ深いもの
 私たちのもっている性質は、自分に優しく、他人に厳しいのですが、ここで言っているのはその逆で、自分に厳しく他人に優しい人、隣人への必要に敏感に答える人、このような人が憐れみ深い人であり、やがて人から憐れみを受けて自分に返ってきます。

6、心のきよいもの
信仰による救いの結果心がきよくされる。その様な人はイエスが神であることを認識する。それをここでは神を見ると言っています。

7、平和をつくるもの
 政治的な平和をつくる人ではない。信者同士の関係でいつも争いを繰り返すのではなく平和
 な関係を保っている人。キリストの心を自分の心として生きようとする人の事である。その様な人が神の子であります。

8、義の為に迫害されている人
これは自分が間違いを犯して人から叱られる人の事ではありません。神の義の基準に沿っていつも生きる人の事です。そうすると当然人々から煙たがれます。時には様々な迫害を受けます。
日本でも多かれ少なかれ迫害があります。また今も共産主義の国やイスラム圏においてキリストに従う時に命が危険にさらされる迫害を受ける時があります。信仰ゆえに日本に亡命した人もいます。
以上新しくされた者は、信仰によってこの8つの性質を持っています。この性質をもった弟子たちは幸いなものだねと言ってイエスは弟子たちに語りかけ励ましたのです。

適用 信仰と恵みによって聖霊様に励まされて生きる
私たちもキリストの十字架の死と復活の御業を信じて、神の前に義とせられ、新しくされました。罪に対して死に神に対して生きる者とされました。新しい性質をいただきました。聖化されました。しかし現実には発展途上ですから常に自分の弱さ、醜さを示され、がっかりします。そのような時にどうしますか。自分のまじめさ、努力で頑張って神の前に生きるのですか。そうするとクリスチャンではなく、苦しいチャンになってしまいます。ではどうすればよいでしょうか。この新しい性質が与えられていることを覚えつつ、恵みと信仰によって聖霊様に励まされつつ生きるのです。今も生きていて大祭司として神にとりなしてくださる主イエスを見上げて生きるのです。

結び 今日の暗唱聖句 マタイ5:3