マタイの福音書(5)

2022年12月24日

2015年2月1日
聖書箇所:マタイ12:1~8
宣教題:キリストは安息日の主 

今日は第一日曜日ですので聖餐式があります。共に主イエスの十字架の死と復活の御業を覚えてまいりましょう。先週は、バプテスマのヨハネがイエス様に対する信仰がぐらつき、弟子を主イエスのところに送り問いかけました。主イエスの答えは、私に躓かないものは幸いですと言う内容でした。自分たちが信仰を失いかけたとき回復の在り方について学んでいきました。

今日は続けてマタイ福音書12:1~8を通して学んでまいりましょう。弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたときパリサイ人たちに非難されました。その時の話になります。この箇所から
学ぶ事があるのかと疑問に思う方もいるかもしれませんが実は私たちに共通することがあります。それでは流れを見てまいりましょう。
1節
その頃とは、麦の穂が出ている時期でありますので春から夏にかけてです。イエス様と弟子たちは安息日に麦畑を通りました。小麦か大麦かどちらかを弟子たちはひもじい思い(いつも腹が減っている)をしていたので麦の穂を摘んで食べたのです。麦の穂を摘んで食べるとはどういう事でしょうか。穂を食べるには、穂を摘む、手で揉みだす、息を吹きかける、食べる。この4段階があります。皆さんはこのような事は考えられないかもしれません。いかがでしょうか。私より先輩の世代ではこのような経験はありますか。私の子供の頃、栗はまだ青い段階でむいて食べることは普通でした。渋が白い運動着について洗濯しても落ちないことが良くありました。
ここで疑問に思う事があります。他人の畑の麦の穂を摘んで食べる行為は盗みではないかと言う事です。しかし、ユダヤではこれは普通の行為で、法律に反している事ではありません。

申命記23:24~25に「隣人のぶどう畑に入った時、あなたは思う存分満ち足りるまでぶどうを食べてよいがあなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑に入った時、あなたの穂を摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない」故に食べても良いのです。但しかごに入れる事や、鎌を使って収穫したらそれは盗みになります。その時に必要な分を食べることを備えられたのです。このような福祉制度が3500年前から制度化していたのが驚きです。現代のイスラエルでも食べても罪にはなりません。日本では了解を得ないで取ると罪になりますので注意してください。日本でも各市町村の社会福祉協議会の働きを通して命を繋ぐ事が出来ますので感謝です。
2節
この弟子たちの行為をパリサイ人が見ていました。これは彼らが偶然そこに居合わせたわけではありません。イエス様と弟子の行為を監視していたのです。当時の宗教指導者であるパリサイ人たちにとってイエス様は要マーク人物であったのです。イエス様の行為は聖書の御言葉から外れた行為で安息日(土曜日)にしてはならない悪い事をしているから許せないと思っていたからです。それで文句をつけてきたのです。当時パリサイ人たちは聖書の理念から外れて口伝律法というものを造り、安息日にしてはならない労働を39種類と決めていました。それを細分化して1500種以上の労働を禁止していたそうです。彼らからすれば麦の穂を摘む、手で揉むことは脱穀、息を吹きかけることはもみ殻の選別、食べることは貯蔵に当たります。故に労働だから安息日の精神に反すると思い込んでいたのです。
安息日の本当の意味
安息日は何々してはならないという、否定的な意味ではなく、人が安心して、健康で生きて行けるようにと神によって定められた制度です。それは1週7日の内1日は土曜日を安息日として必ず仕事を休み、主を礼拝して体調を整え、人間らしく生きることが出来るようにと愛の配慮に基づく律法なのです。それをパリサイ人たちは表面的な事に執着して本質を見失い形式化して理解したのです。こうして民衆の生活はがんじがらめに縛られることになります。
3節~4節
これに対してイエス様は旧約聖書の言葉(Ⅰサムエル21:1~6)にあるダビデとその仲間がとった安息日の行動を通して反論します。祭司が神に仕える聖所には12個のパンが並べられていました。これは安息日ごとに交換しますが普通これを祭司たちが食べます。しかしダビデたちがサウルから追われてきた時にひもじかった時に、祭司は特別にパンをダビデたちに与え彼らは食べたのです。それを知らないのですかとパリサイ人に示しています。命の繋いでいくことは律法の規定に優先する行為です。パリサイ人よ。そんなことさえも理解していないのですか。
5節
もう一つ、イエス様は旧約聖書から安息日にも働く祭司たちの例を挙げて、例外規定があることを教えて下さったのです。今日の弟子たちの行為は律法違反にはならない。民数記28:9~10
6節
ここに宮よりも大きなものが(イエス)いるのです。宮よりも大きな私イエスがいるから、故に安息日には縛られない。
7節
ホセア6:6を引用して憐れみを示すことは善であるから弟子たちの行為は全く問題なし。
8節~9節
安息日は人の為に造られた、安息日の為に人が造られたのではありません。人の子、メシヤに適用されません。安息日の規定を超越した私イエスこそ主である。
適用 今日の聖書箇所は私たちと関係ないように見えますが実は大いに関係があり、適用できます。
1、安息日とは
旧約聖書に出てくる安息日とは良いものです。人の健康の為に7日に1日休んでリフレッシュするように主が定めた恵みと感謝の日です。ところがパリサイ人(全てではありません)が誤った解釈で先祖の言い伝えを造り、教えてしまったのです。そこから本質から外れてしまいました。私達も聖書の教える本質から外れて、人を裁きまくるパリサイ人的になりやすい存在ですから心して歩みましょう。今の時代、安息日は土曜日なくても構いません。日曜日が安息日でなくても大丈夫です。毎日が安息日であり、良いわざを行い、楽しむ日であります。但し週に1日は身も心を休むことが大原則であり、新約聖書時代の意味になります。クリスチャンはやがて永遠の安息に入ります。
2、聖書的な生き方は、律法的な生き方から解放される
旧約聖書に出てくる律法は人が幸せに生きることが出来るように、モーセを通して啓示された神の言葉ですから良いものです。ここは誤解しないでください。ただし、聖書が言っていない事まで、これをしてはだめ、あれもしてはだめと、ダメダメ尽くしの生き方を律法的、律法主義とか言います。物事を否定的、一方的にとらえて人との関わりが上から目線、人を裁く生き方を聖書は勧めてはいません。聖書が勧める生き方は、これもするな、あれもするなという生き方でなく、マタイ7:12にあるように、何事でも自分にしてもらいたいことは、他の人にもしなさい。これが律法であり預言者(聖書)です。キリストの愛に基づく自由な生き方を勧めています。そうすれば人を裁いて交わりを壊す破壊的な生き方解放され建設的な生き方に変わります。貴方もいかがですか。

結び 今日の暗唱聖句 マアタイ12:8 すべての主権をもっておられる主イエスを崇めよう。